戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

林 存選 りん そんせん

 中国明朝の貿易商人。日本や東南アジアとの貿易に従事。天正元年(1573)、大友氏の貿易船*1カンボジア*2から日本に来航した。

カンボジアから日本へ

 天正元年(1573)、林存選は商取引の為、柬埔寨(カンボジア)に逗留していた。そこに豊後の大友氏が「南蛮国」に派遣していた貿易船が入港してきた。以前の取引で豊後の豪商・仲屋宗越と旧知の仲であった林存選は、自分も「到日本国意欲収入」と希望。大友氏側の「上恩」で、大友船への乗船が許可された。

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 なお大友船はカンボジアで破損したらしい。しかし大友宗麟の船ということで、その国の国守が廉直に処置してくれたのだという。

薩摩阿久根への入港

 林存選を乗せてカンボジアを出発した大友船は、南シナ海から東シナ海を北上して九州の南方海域まで戻って来た。しかしここで「天風不順」となり、船は薩摩西岸の阿久根に避難入港した。「大風」は港内でも吹き荒れ、「繋置」中の大友船はついに「碍船」し操船不能となった。

 このため、林存選はやむなく書簡*3を作成し、カンボジアから携えてきた「花幔*4一枚とともに使者に託して仲屋宗越に送った。

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参考文献

  • 鹿毛敏夫 「一六世紀九州における豪商の成長と貿易商人化」 (鹿毛敏夫・編 『大内と大友 ―中世西日本の二大大名―』 勉誠出版 2013)

*1:林存選がカンボジアから日本に来航した経緯は、「豊府紀聞」所収の豊後の豪商・仲屋宗越に宛てた書簡から分かる。一方でこの書簡には、日本行きの船が、大友氏の船であったとは示されていない。しかし「島津家文書」の史料には、大友氏が「南蛮国」に派遣し、天正元年に島津領内の港で破損した船についての交渉に関わる文書が収められている。この船の経緯は、林存選が乗船した船のそれと酷似していることから、二つの史料の船は同じものであるとされる。

*2:天正年間、大友氏はカンボジアと外交関係を結んでいた。島津氏の外交僧・雪岑津興が著した『頌詩』には、天正七年(1579)、カンボジア国王が大友義鎮に宛てた国書の写が収められている。

*3:宛名は「大国望宗越老先生大人」となっている。

*4:「花幔」は寺院本堂の内陣を囲んだり、天蓋として吊したりするばん幕(ピダン)の生地。カンボジア絣で作られていたとみられる。