戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

堀立 直正 ほたて なおまさ

 戦国期、毛利氏に仕えた商人的武士。官途名は九郎左衛門、後に壱岐守。生年は永正十五年(1518)*1。子に九郎左衛門、清蔵、藤右衛門がいる。

 毛利領最大の要港・赤間関の代官を約20年にわたって務めた。名字の地は、安芸国佐東川(太田川)河口の堀立。天文十年(1541)の武田氏滅亡時に毛利氏に属したといわれる。

大内方への調略

  天文二十三年(1554)、毛利氏が陶氏(大内氏)に叛旗をひるがえした。堀立直正は毛利氏に協力し、佐東金山城廿日市厳島の町に対する調略を担った。

 続く毛利氏の防長侵攻戦においても、直正は活躍した。弘治二年(1556)、直正は赤間関にあった大内方の「鍋要害」(鍋城)攻略に功績を挙げた。これを受けて毛利元就は、城衆と警固船を派遣して直正に所属させている。直正は鍋要害攻略後に、その城番の地位に就いたとみられる。

赤間関での活動

 その後直正は鍋城番として、北部九州各地への舟送を行ったり、赤間関や近辺の諸浦から舟・水夫等を徴発して警固を勤めた。また筑前の麻生鎮里と緊密な関係を結び、鎮里の息女を人質として預かることもあった。一方で宗像氏や杉氏、麻生氏ら豊前筑前の領主層の動静に関する情報収集も行っていた。自ら豊前香春岳城に出向くこともあった。

 天正二年(1574)九月、毛利輝元は直正が自身で鍋城普請を行ったことを褒賞している。鍋城普請は、この時に限らず元就の時代から、何度か自前で行っていたようである。鍋城以外にも、長門日山城や豊前三岳城の、普請および普請資材の調達を行っている。また兵糧の調達も行っており、元就や輝元に送っていることが、史料上確認できる。

赤間関代官

 永禄四年(1561)、直正は「赤間関町々帳」*2を入手し、これを毛利元就に送進している。これは赤間関代官の職務のひとつだったと考えられている。

 永禄五年(1562)五月、直正は毛利隆元から改めて「関役」(赤間関代官)に補任された。また毛利氏奉行人の求めに応じて、過分の費用を立て替えていたらしい。これに対し、直正の抱地であった豊西郡黒井郷*3の段銭が免除されている。直正の経済力の一端をうかがうことができる。

 また赤間関の問役だった佐甲三郎左衛門尉が病死した際は、直正と赤川元忠に対し、正当な筋目の者に継承させるよう、毛利氏奉行人・児玉元良から指示が出されている。

関代官の引退

 天正六年(1578)三月、直正は関代官の辞任を申し出た。永禄四年から約20年間、直正は関代官の地位にあったことになる。年齢も60歳となっていた。毛利輝元は代官辞任を承認しながらも、織田氏との戦争激化を理由に、いましばらく関代官を務めるよう命じている。この後の同年十一月にも、直正は鍋城の普請を速やかに完了させ、毛利氏から褒賞されている。

 直正辞任後は、高須元兼と井上元治が関代官を引き継いだ。

参考文献

  • 岸田裕之「人物で描く 中世の内海流通と大名権力」(『海の道から中世を見るⅡ商人たちの瀬戸内』) 広島県立歴史博物館 1996
  • 岸田裕之「大名領国下における赤間関支配と問丸役佐甲氏」(『大名領国の経済構造』 岩波書店 2001)

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門司から眺めた関門海峡赤間関

*1:杜屋神社の永禄十年の棟札に、檀那となった直正の当時の年齢が記されている。

*2:内容は不明だが、おそらく公事銭・地料銭等の徴収対象としての関町(町人)の実態について個別に書き上げたものと推定されている。

*3:黒井村の杜屋神社の大宮司職は、永禄三年に掘立直正の申請で、堀立亀松(後の藤右衛門尉)に与えられている。永禄十年(1567)には、直正が独力で造営を行っている。