戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

仲屋 宗越 なかや そうえつ

 戦国末期の豊後の豪商。仲屋顕通の子。京堺、そして東アジアとの貿易で莫大な富を得た。史料上の名は「宗悦」であることが多いが、自身は「宗越」と署名している。

臼杵の豪商

  文禄二年(1593)の「豊後国海辺郡臼杵庄御検地帳」の唐人町懸ノ町の名請人に「宗悦」(宗越)の名が確認できる。これによれば、宗越は臼杵唐人町懸ノ町に屋敷を6筆を有していた。その敷地面積は、1町1反6畝26歩であり、同町の55%を占める規模であった。宗越が桁外れの豪商であったことが、数値の上からも分かる。

海外との貿易

 『豊府紀聞』には、明の商人・林存選が宗越に宛てた書簡が掲載されている。カンボジアから薩摩・阿久根に来航していた林存選が、宗越に直接会いたいが船が破損して出航できない状態を伝え、カンボジアで手に入れたとみられる「花幔」(花模様の幔幕)を贈っている。宗越と林存選が、これ以前の商業活動を通じて旧知の仲*1であったことがうかがえる。

 林存選がカンボジアから乗って来た船は、天正元年(1573)に大友氏が「南蛮国」(カンボジア)に派遣した貿易船だった。この船は帰路、大風に遭い薩摩西岸の阿久根に避難入港したものの破損。積荷ともども島津氏に抑えられ、大友氏は早期返還を求めていた(「島津家文書」)。大友氏の交渉担当者は「仲掃部助」という人物であり、その名から豪商仲屋の人物と推定されている。

豪商仲屋のネットワークと為替

 天正二年(1574)七月、仲屋宗越は大友家臣・利光彦三郎に為替状を発行した(「三聖寺文書」)。利光氏は、京都の東福寺塔頭・三聖寺*2豊後国内で保有する所領の年貢進納を担当していた。宗越は、天正元年(1573)分の年貢銀子5貫800匁を豊後で受け取って、この為替状を発行。三聖寺に渡し、和泉堺で現銀化するよう定めている。

 宗越が発行した為替状は、後半に但し書きがあり、現銀化の際の計量に使う天秤を、願超という人物が所持するものに限定している。近世の編纂物『大友興廃記』では、「中屋宗悦」(宗越)について、「府内の居住を仕ながら、大坂、堺、京何の地にても、富貴繁華の所には一家づつ持ち、下代を遣し、或は一門の末をも遣置けり。」としている。このことから、三聖寺に銀子を支払う場所とは、堺にある仲屋*3の支店であったと推測される。また各支店には豊後と同じ規格の天秤が、持ち込まれていたと考えられる。

肥後と日向

 天正十三年(1585)閏八月、大友義鎮は筑後に出陣中の義統に、九州各地の政情を記した書状を送っている(「西寒田神社文書」)。その中で、肥後の阿蘇・三船・隈庄方面での島津方の動きは「宗越一通」(宗越からの諜報)が情報源となっている。肥後国では、先代の顕通が天文年間に河川流通に関わっていた。宗越も、肥後国に頻繁に往来していたものと考えられる。

 同年、京都の猿楽師渋谷常庵一行*4が九州を訪れる。渋谷一座が島津氏領内に滞在した際に、島津氏宿老・伊集院忠棟が、日向国目井(日南市南郷町)の竹下宗怡*5に饗応を指示している(「竹下家系図所収文書」)。内容は、「廻船中」を動員して一座に「外ノ浦遊山」をさせるというものだった。一方で、文中に「豊後宗悦」とあることから、仲屋宗越が何らかの形で関わっていたと考えられている。

大友氏の命運を懸けた交渉

 天正十四年(1586)四月、大友義鎮は羽柴秀吉に援軍を要請するため大坂に上がる。秀吉との会見の二日前の四月三日、堺の天王寺屋で宗及から茶湯接待を受ける(『天王寺屋会記』)。義鎮には、大友家臣・浦上道冊とともに仲屋宗越が随行。大友氏と深い関わりがあった天王寺屋道叱も同席した。

 さらに翌年二月にも、宗越は大友氏の使者として同氏重代の家宝「平釜」*6携えて上坂した(「大友松野文書」)。この時の大友氏の使者は宗越のみであったとみられるが、その任務は秀吉に援軍を重ねて催促するという大友氏の命運を賭けた重要なものであった。

 この時の宗越の働きから、大友氏政権の中で多大な信頼を得た政治的豪商でもあったことを知ることができる。

羽柴秀吉への便宜

 天正十六年(1588)六月、当時たまたま上洛していた宗越は、秀吉から方広寺大仏造営のための便宜を図るよう求められた(「大友家文書録」)。八月、宗越は秀吉の使者として肥前平戸の松浦氏のもとに赴き、平戸の中国人大工・古道の上洛を促している(「松浦文書」)。古道は、天正六年(1578)五月に大友義鎮から「分国中津々浦々諸関」での通航課税免除特権を得ている人物であり、経済活動を通じて宗越と以前から繋がりを持っていた可能性が高い。

 上記の天正十四年および十五年の2回の接触を通じて、秀吉は宗越の利用価値を認めたものと思われる。宗越はこれにより、大友氏を基軸とする活動から、より上位の羽柴秀吉を基軸とするルート上で活動する、いわば豊臣政権下の豪商に成長していったともいえる。

関連人物

参考文献

  • 鹿毛敏夫 「戦国期豪商の存在形態と大友氏」 (『戦国大名の外交と都市・流通―豊後大友氏と東アジア世界―』 思文閣出版 2006 )
  • 鹿毛敏夫 「十六世紀九州における豪商の成長と貿易商人化」(鹿毛敏夫 編『大内と大友‐中世西日本の二大大名-』 勉誠出版 2013)

*1:近世の『大友興廃記』によれば、宗越は外国船来航の際に、船の口開きを行う権限を有していたという。明商人との交流も多かったと推測される。

*2:鎌倉期の創建とされる。東福寺所蔵の「三聖寺古図」に明徳年間以前に大伽藍を有する寺勢が描かれている。鎌倉期から豊後国大野荘内に所領を有した。

*3:願超は、堺支店を任された一門もしくは下代と考えられる。

*4:渋谷一座の九州巡行は、天文後期から実施されている。また天正十一年(1583)には、先々代の清庵が禁裏に招かれて舞を披露している。

*5:日向国南部の南郷地域の廻船中組織を掌握する頭目。慶長元年(1596)、内之浦役人として藤原惺窩をもてなした。琉球にも住居を有して妻子をもっていた為、琉球の風土に詳しかったという。

*6:永禄五年(1562)に「平釜事、於相留者、定義鎮可為満足」として大友義鎮から足利義輝に届けられ拝謁をうけたこともある(「大友家文書」)。