戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

カンボジア絣 かんぼじあ かすり

 カンボジアは、インドシナ半島のなかでも優れた染織文化を有していた。特に非常に繊細な絹の絣は、その色の美しさや括り技術の精緻さでアジアの絣のなかでも群を抜いているという。

 複数色の糸を括り分けて仕上げた絣は、寺院や式典の装飾幔幕であるピダンや、女性の巻きスカートであるサンポット、撚った部分を足の間にくぐらせた袴の形のチョン・クバン等の用途で使用された。

カンボジアへの伝播

 絣の起源はインドと推定され、その後、カンボジアをはじめとする東南アジア各地に伝播したとみられる。

 13世紀末、中国・元の周達観が著した『真臘風土記』によると、「カンボジア人も布を織るが、スコタイやチャンパからも入ってくる。インドから来るものが上等品である」と記されている。また「機杼(高機?)がなく、一端を腰に縛り一端をまどの上にかけて織る」ともある。当時は古来の腰機で織っていたようである。

 もちろんこれだけではカンボジアの絣の生産開始時期は不明だが、残っている古い絣から、約300年ほど前にはカンボジア絣の独自性が確立されていたのではないかと推定されている。

チャンパとの技術交流

 カンボジアの東、現在のベトナム中部にあったチャム人の王国チャンパは海洋交易で栄えた国であり、紋織とともに絣も盛んだった。15世紀には弱体化したチャンパから多数のチャム人がカンボジア流入する。

 カンボジア絣の成立には、インドからの伝播に加え、このチャム人の影響もあった可能性が指摘されている。

日本への渡来

 カンボジア絣とみられる染織は、戦国期の日本にも渡っている。天正元年(1573)頃、明の貿易商人とみられる林存選は、カンボジアでの取引を終えて入港した薩摩の阿久根から、豊後の豪商・仲屋宗越に書簡と「花幔」1枚を届けている(「豊府紀聞」)。

 この「花幔」は寺院本堂の内陣を囲んだり、天蓋として吊したりするばん幕(ピダン)の生地で、花紋様が織り込まれていたとみられる。

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参考文献