戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

プノンペン Phnom Penh

 メコン河口から約300km 遡上した地点に位置し、河川交通の要衝して栄えたカンボジアの交易都市。カンボジア王国を代表する町の一つであり、15世紀には一時その王都となっている。

メコン河の碇泊港

 プノンペンではメコン河とトレンサップ河が合流し、さらにメコン河とバサック河が分流する。このため、別名を現地語で「四つの顔」を意味する「チャット・ムック」とも呼ばれた。この交錯する河川を利用した水運によって諸外国も含めた各地の商船が輻輳し、プノンペンカンボジア屈指の貿易都市としていた。

 ガブリエル・デ・サン・アントニオは、16世紀末のカンボジアの情勢を述べた記録の中で、プノンペンを古都アンコール、行政地シストルと共に国内三大都市の一つに挙げている。

 1622年(元和八年)におけるオランダ人のカンボジアに関する報告にも、碇泊港あるいは国王がその王宮を営んでいる処を「チュルムレック」及び「レウェク」と言い、河口から六十蘭哩の処にあることなどが記されている。チュルムレックはチャット・ムック(プノンペン)を指し、レウェクはプノンペン北方の王都ロウェクを指すとみられる。

  江戸期にカンボジア渡航した長崎の町人伽羅屋・森助次郎は、河口から船着場まで、幅37里、長さ500里の大河を60日かかって遡航したという。彼の乗船はメコン河を遡って「碇泊港プノンペン付近に到達したのだろう。

中国との交流

 『明史』外国伝によると、14~16世紀の間に「真臘(カンボジア)」は14回にわたって中国の明朝に朝貢を行っている。16世紀のプノンペンは中国で「竹里木」(チャット・ムックの音か)と呼ばれ、多くの華人が住んでいた。1596年(慶長元年)頃には、その数は3000人に達したという。

大友氏の南蛮貿易

 少なくとも16世紀後半以降、日本・カンボジア間の通交も盛んになっていた。天正七年(1579)、豊後に向かっていたカンボジア船が薩摩に漂着し島津氏によって抑留された。この船は「日本九州大邦主源義鎮」(大友宗麟)へ宛てたカンボジア国王の書簡と大友氏の贈答品に対する返礼品(銅銃や蜂鑞、など)を積載していた(『頌詩』)。大友氏はこの時既に、カンボジア国王との深い友好関係を構築していたとみられる。

 これに対し島津義久は「南蛮国甘埔寨賢主君」(カンボジア国王)の「浮喇哈力汪加」に対して「我国必以帰国為善隣、永々自他為和好」を呼びかける書状を認めている。大友氏に替わって、カンボジアとの新たな通交関係構築を試みている。

 また16世紀後半、明の商人・林存選は、柬埔寨(カンボジア)から日本に来航して薩摩の阿久根に滞在していた。この際、豊後の豪商・仲屋宗越に対して書翰とともにカンボジアで手にいれたと思われる「花幔」(花模様の幔幕)を届け、宗越のもとで商売を行いたい旨を伝えている(『豊府紀聞』)。

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日本との交流

  カンボジアの使船は、文禄二年(1593)七月にも肥前名護屋に来航している(『大和田重清日記』」)。同年には薩摩から、カンボジアをはじめルソン、シャム、マカオに赴く商船があったことが、薩摩に潜入した明の密偵によって報告されている(『敬和堂集』巻五「請計処倭酋疏」)。

関連交易品

参考文献

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