肥前国長崎半島の付根の入り江を天然の良港とする港町。戦国後期から近世にかけて、ポルトガル船による南蛮貿易の中心拠点として栄えた。
南蛮貿易港となる
元来は大村氏に属す長崎氏の城下町的集落であった。元亀元年(1570)、大村氏がイエズス会に開港を約束したことに伴い、6つの町が新設されて南蛮貿易港としての新しい長崎が誕生した。
新設の6つの町の名称は、大村町、平戸町、島原町、横瀬浦町、外浦町、分知町であった。周辺都市の商人が移住して、建設されたものとみられる。天正七年(1579)の宣教師・カリオンの報告では「多数のキリシタンが建てた四百以上の家屋からなる町」とある。多くのキリシタンも移住していることがわかる。
イエズス会の自治都市
この新生長崎には、毎年のようにポルトガル船が入港。長崎を勢力下におく大村氏に大きな利潤を供給した。その後、大村氏が長崎をイエズス会に寄進したことにより、長崎はイエズス会のもとで自治を行うキリシタンの町となる。
対外貿易の活況
天正十三年(1585)、宣教師・フロイスの報告によれば、長崎には中国からの船が絹、緞子、麝香、金などを積んで来航して毎年50万クルサードの銀を運び出していた。そのため長崎には日本各地から多くの商人が集まり、他地域からの流民も家族単位で移住してきて、彼らが新たな信徒となっていたという。
実際、当時の遺構からは、中国、朝鮮、東南アジア製の貿易陶磁が大量に発見されている。