戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

ボートル boter

  乳製品の一種。いわゆるバターのこと。16世紀末にポルトガル人により日本にもたらされたとみられる。当時の日本人は乳製品を嫌っていたが、一方で薬としての需要があった。

乳製品製造の途絶

 平安期、日本では乳製品が作られていた。承平七年(937)成立の辞書『和名類聚抄』の巻第16飲食部部酥蜜類の項には、酪、酥、醍醐、乳餅が記されている。

 このほか、文武天皇四年(700)から諸国に対して「」という乳製品の製造と貢納が義務付けられていた。蘇は牛乳をおよそ1/10に濃縮して製造され、折敷に盛ることができるほど乾燥したものだった。全粉乳のようなものだったと推定されている。

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 蘇は宮中の仏教行事などで供物や御布施として利用され、あるいは祝宴の際の点心(菓子)としても利用された。またミネラル、ビタミン不足から起こる疾病の治癒や体力回復になくてはならぬ薬餌*1としても重要視された。

 しかし蘇など乳製品の製造は、南北朝期以降は史料上確認できなくなる。製造コストが高いことや、牛が役畜として使用され、牛乳の飲用が一般化しなかったことなどが背景にあると考えられている。

 16世紀後半に来日したポルトガル人の宣教師ルイス・フロイスは『日欧文化比較』において、当時の日本人が、乳製品・チーズ・バターなどを異臭がするという理由で嫌っていたと述べている。

われわれ(ヨーロッパ人)は乳製品、チーズ、バター、骨の髄などをよろこぶ。日本人はこれらのものをすべて忌み嫌う。彼らにとってはそれは異臭がひどいのである。

ボートルを使った料理

 ボートル(バター)は、フロイスら16世紀以降に来航したヨーロッパ人によって日本に持ち込まれていたとみられる。

 寛成十一年(1799)成立の『楢林雑話』には「蘭人常食にパンと云ものを用ゆ。(中略)パンの上にボートル牛羊酪を引き食す」とあるので、オランダ人が母国と同様に、パンの上にボートルを乗せて食べていたことが分かる。またボートルに「牛羊酪」との注釈しており、ボートルが牛酪あるいは羊酪であるとの認識があったこともうかがえる。

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 オランダ人は、パンだけでなく他の料理にもボートル(バター)を用いており、日本人も食す機会があった。天明八年(1788)十一月、長崎に来た司馬江漢は日記に以下のように記している。

六日 曇る、寒し。朝起き、勝手の方を見るに、皆何にもかもおらんだ風なり。夫より二階に登り、倚(椅)子により、ヤギ、小鳥を焼て、ボウトルを付け食ふ。飯のさい(菜)、ヤギに油、醤を付焼く

 司馬江漢は止宿したオランダ語通詞・吉雄幸作の家で、焼いたヤギと小鳥にボウトル(バター)を付けて食した(『江漢西遊日記』)。

 また文政年間に編纂された『長崎名勝図絵』でも和蘭陀正月の料理の献立に「ボートル」がみえる。すなわち鉢の料理に「ボートル煮、和蘭陀菜」「ボートル煮、萵苣(チサ)」「ボートル煮、胡蘿蔔(人参)」「ボートル煮、蕪根(カブ)」が記されている。

薬としてのボートル

 正徳二年(1712)成立の『和漢三才図会』巻37「畜類」の牛の項目には、「牛乳」に「ボウトル」とルビがふられ、「甘微寒、蕃語で保宇止留と名す」とある。続けて「反胃」(食べもどし、物を食べても消化されずに吐くことをくりかえす疾)、つかえ、大便操結(便秘)には牛・羊の乳が良いので、時々之を嗜み、あわせて四物湯を服用すれば上策である、と記されている。

 なお同書の巻14「外夷人物」の榜葛刺(べんがら)、すなわちインド・ベンガル地方の項では、土産として榜葛刺絲や金巾木綿、沙糖、阿片、麝香などとともに「牛乳(ボウトル)」を挙げている。オランダ人はこれらを交易によって日本にもたらすのだという。

 寛永十八年(1641)10月24日のオランダ商館長マクシミリアン・ル・メールの日記によれば、この日、長崎出島に有馬の領主らが多数の「貴族」を率いて訪れた。オランダ人は葡萄酒や料理で歓待したが、この時、彼らの前に出した葡萄酒、アラク酒、牛酪(バター)、乾酪(チーズ)などについて種々の質問があったという(『オランダ商館日記』)。

 オランダ人は、バターが日本で需要があることを認識していた。正保四年(1647)1月11日付のオランダ商館長ウィレム・フルステーヘンの『オランダ商館日記』には以下のような記載がある。

筑後殿(幕府大目付井上筑後守政重)は我らに特別の好意を寄せ、諸人は閣下を介して眼鏡、望遠鏡、赤ブドウ酒、アメンドー等を購めることができ、我らは大に利益を得るのである

 翌月の2月4日、このときフルステーヘンらは江戸への参府中だったが、留守中のオランダ商館に通詞が奉行の使者として訪れ、バターとチーズを所望。小さい壺にバター4斤とチーズ半分を渡したが、これらは急使に託されて江戸に送られたという。2月13日にも、通詞が堀田加賀守正盛のためにバター10斤を求めている。

 日本人が薬としてバターを求めていたことも『オランダ商館日記』に記されている。承応三年(1654)2月9日、商館長ハブリール・ハッパルトは、かつて長崎奉行であった馬場三郎左衛門利重の家老が病んでいるため、密かにバター半斤を届けたという。

 安永四年(1775)頃、スウェーデン人の植物学者ツュンベリーは、『江戸参府随行記』の中で以下のように述べている。

日本人は、塩漬けの肉類は食べずに保存し、薬として用いる。同様に塩味のきいたバターは、丸剤として肺結核患者や他の病人に毎日服用させる。その用い方について、私はよく尋ねられた

 日本人がバターを肺結核の妙薬と考えていたことについては、シーボルトの長子アレクサンダーも安政六年(1859)頃の記述の中で言及している*2

参考文献

  • 松尾雄二・崎村優也・永徳遥 「文献にみる長崎の室町時代以降の牛乳・乳製品について」(『畜産の研究』69巻6号 2015)
  • 斎藤瑠美子・勝田啓子 「日本古代における乳製品酪・酥・醍醐等に関する文献的考察」(『日本家政学会誌』39 1988)
  • 斎藤瑠美子・勝田啓子 「日本古代における乳製品「蘇」に関する文献的考察」(『日本家政学会誌』39 1988)

倭漢三才図会 巻三十七 畜類 国立国会図書館デジタルコレクション

*1:10世紀の医書『医心方』は、蘇について「五蔵を補い、大腸に利き、口瘡を治すというものである」としている。

*2:シーボルトは「喜望峰を経て長い航海の末にやっと届いたバターは、肺結核の妙薬として売られていた」と述べていたという。