戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

カメラ・オブスクラ camera obscura

  ピンホール現象を応用して投影像を得る装置。17世紀初頭、オランダ人によって携帯型のカメラ・オブスクラが発明され、市販されるようになった。江戸初期の日本にも移入されており、日本ではオランダ語の音写として「トンクルカームル」、あるいは日本語訳して暗室鏡、暗室写真機、写真鏡と呼ばれた。

ピンホール現象と「暗い部屋」

 小さな一つの孔を除き光の入らない暗い部屋で外が十分明るいとき、その小孔から差し込む光が反対側の壁に外の風景を映し出すピンホール現象は、古くから知られていた。

 紀元前5世紀の中国において、墨子とその弟子の著作にピンホール現象がもたらす倒立像の記述がある。また紀元前4世紀のアリストテレスに樹木の葉の間から地面に落ちる丸い光が太陽の像であるという記述があった。

 1040年(長久元年)に没したムスリムの科学者イブン・アル=ハイサムは、『光学(視覚論)』において「暗い部屋」を挙げ、多くの光学実験を行っている。イブン・アル=ハイサムはピンホール現象に直接言及していないが、光と視覚の研究に暗い部屋を利用することは、彼にはじまるとされる。

 その後、太陽の観測に「暗い部屋」を使うことは、天文学において特に珍しいことではなくなった。13世紀のイギリスの司教ジョン・ペッカムは日食の際、小孔を通して部屋の中に太陽の像を導き入れると壁の上で太陽が徐々に三日月形に欠けていくのを観察することができる、と記している。

 ルネサンスの時代、こうした部屋で太陽の観察をするのは比較的一般的になっていた。その最初の図は、オランダの数学者・天文学者であったゲンマ・フリシウスが1545年(天文十四年)にアントワープで出版した『天文学と地理学の基礎』に掲載されている。

レンズ付きカメラ・オブスクラの誕生

 16世紀、暗い部屋にレンズがつけられた。ヨーロッパでは13世紀から老眼鏡が用いられており、十分な性能の凸レンズが存在していた。レンズを開口部に使用すると、ただ小さな穴を開けている時よりも、ずっと鮮明な像が得られる。十分な大きさのレンズを使えば、部屋のなかで像をなぞり、実物の絵をつくることは実用的となる。

 レンズ付きカメラ・オブスクラの発明者として、イタリア南部のナポリの科学者ジョバンニ・バティスタ・デラ・ポルタの名が挙げられることがある。デラ・ポルタは1558年(永禄元年)にナポリで出版された著作『自然魔術』の初版の中で、部屋におけるピンホール現象に言及。さらに1589年(天正十七年)の版で、以下のように述べている。

もしその穴に小さな水晶のレンズを嵌め込むとただちに、あらゆるものがはっきりと見えるようになる。歩いている人の顔つき、色彩、服装など、すべてがあたかもすぐそばにあるかのように見える。
その光景の与えてくれる喜びはとても大きく、どれほど賞賛してもしたりないぐらいだ。・・・もし、あなたが人物やその他のものの絵を描くのが苦手であれば、この仕方で描くとよいだろう。

 デラ・ポルタは、上記のように部屋にレンズをつける方法を記している。ただし、デラ・ポルタがカメラ・オブスクラの発明者だとされたのは、彼の『自然魔術』がベストセラーとなり、とてもよく読まれたことに由来する。

 レンズ付きカメラ・オブスクラの発明に関わる先行研究は、デラ・ポルタ以前から存在した。16世紀初頭にはすでに、レオナルド・ダ・ヴィンチがデラ・ポルテの記述に近い、部屋におけるピンホール現象について、手稿にはっきりと記述している。

 レンズをつけた部屋について、明確な記述があらわれるのは16世紀後半からとなる。ヴェネツィアの貴族タニエレ・バルバーロは1568年(永禄十一年)出版の『遠近法の実践』で、遠近法的に正確な絵を描くには老眼鏡のガラス(すなわち凸レンズ)を開口部につけた部屋を利用するとよいと記述している。またレンズの前に絞りを置くことにも言及した。

 ヴェネツィアの数学者ジャンバティスタ・ベネデッティも1585年(天正十三年)出版の著作で、部屋に入ってくる光に対して45度の向きに鏡を置くことにより、像の上下逆転をもとにもどす方法について記述している。

 その次に開口部にレンズをはめた部屋に言及したのが、前述のデラ・ポルタだった。その著作『自然魔術』は圧倒的な人気を誇り、その人気のせいでデラ・ポルタがレンズ付きカメラ・オブスクラを発明した人物であるかのような認識が広がることとなった。

部屋型カメラ・オブスクラの普及

 ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラーは1604年(慶長九年)の『ウィテロへの補足』で、ドレスデンにおけるクレストカマー(驚異の部屋)体験を記述している。ドレスデンの館には、一つの部屋を暗くし、たった一つの開口部にレンズをつけて、鮮やかなピンホール現象を来訪者に体験させる仕掛けがあった。これは、観光名所や娯楽としての部屋型カメラ・オブスクラに言及する最初のものとされる。

 ケプラーは後に、改良型の部屋型カメラ・オブスクラを仕事で用いる。1620年(元和六年)、イギリスの外交官ヘンリー・ウォットンはオーストリアリンツにいたケプラーを訪ねた際、ケプラーから「テント式カメラ・オブスクラ」を見せてもらい、イギリスの大法官フランシス・ベーコンに宛てた手紙に以下のように記している。

彼は小さな黒いテントをもっていて、それは野外ですぐに組み立てられます。また風車のように好きな方向に向けることができ、一人でもなんとかあまり労を要さず扱うことができます。
それは、直径1.5インチほどの穴を除き、しっかりと閉じ、暗くできます、穴には凹レンズをはずし、凸レンズだけを残した望遠鏡を取り付けます。凹レンズだけをはずした方の端は、テントの中央ぐらいになります。
外のあらゆる対象からの光線は、その望遠鏡の筒を通してちょうどよい位置に設置された紙の上に投射されます。自然とまったく同じ姿のその像をトレースすることができるのです。
さらに、テントの向きをすこしずつ変えていくことで、その場の全光景を描き出すことができるのです。

 ケプラーは、このときオーストリアの測量に従事していた。ウォットンは、地図や地形図の作成に役立つので、閣下(ベーコン)にお伝えしますと附言し、そして、この装置を用いると、どこの風景でも自由にどの画家よりも正確に描くことができます、と結んだ。

 カメラ・オブスクラの用途が、風景の描写や地図、地形図の作成であったことが分かる。

携帯型カメラ・オブスクラの登場

 オランダのオラニエ公の秘書官であったコンスタティン・ホイヘンスは1621年(元和七年)にイギリスに出張し、オランダ人発明家コヌネリス・ドレベルに会った。そして次の年にイギリスを再訪した際に、ドレベルの携帯型カメラ・オブスクラを購入し、持ち帰ることができるとわかって、大喜びした。

 ホイヘンスは両親に宛てた手紙の中で、この装置は「ドレベルの発明の最高傑作」であり、この装置が生み出す像に比べれば、どんなすぐれた絵でも死んでいるも同然だと述べている。

 持ち帰ることができたという点から、ポータブルな箱形カメラ・オブスクラであったことがうかがえる。また発明家ドレベルがこの装置を組み立てて販売していたことも分かる。

 なお。携帯型カメラ・オブスクラは1640年代には商品として市場にでまわっていた。その一部がオランダ東インド会社によって日本にもたらされることになる。

日本に移入されたカメラ・オブスクラ

 日本のオランダ商館の記録によれば、1645年(正保二年)にオランダ船ヒレガールスベルヒ号が長崎に運んできた珍品の中には、計12個のカメラ・オブスクラ(doncker camer glasen)があった。

 カメラ・オブスクラは他の品々とともに幕府大目付井上筑後守政重に献上された。しかし結果は予想外のものだった。オランダ商館長レイニール・ファン・ツムは、1646年(正保三年)3月6日の日記で以下のように記している。

筑後殿は、すべての珍奇な品すなわち、閣下のために持ち渡った焦熱レンズ(brantglaasen)、拡大鏡(vergrootglaasen)、暗室鏡(donckercamer-glaasen)、及びその他の品々を、甚だ不満であるとして送り返してきた。通詞の知らせによると、その中の一つも彼の気にいらなかったからだ(とのことである)。

 上記の「暗室鏡(donckercamer-glaasen)」がカメラ・オブスクラにあたる。オランダ東インド会社としては、ヨーロッパで製造されていた興味深い光学的器具を選んだとみられるが、文化的背景を異にする当時の日本では関心を得られなかった。

 なお、この「暗室鏡」は焦熱レンズや拡大鏡とともに贈られていることから、レンズ付きのカメラ・オブスクラだったとみられる。また携帯できる程度のサイズだったとも推測される。

 1646年(正保三年)6月、オランダ東インド会社は日本での不評を受けて、鋼鉄製(枠)の鏡と「透視箱(perspectijff casken)」、ペルシアから来た2頭のラクダを長崎に送った。これらは江戸で好評を博したという。

参考文献

  • 板垣俊一 「江戸時代の覗き眼鏡―江戸時代における西洋製光学器具の受容―」(『新潟の生活文化』17 新潟県生活文化研究会 2011)
  • 吉本秀之 「日本におけるカメラ・オブスクラ=写真鏡」(『Perception in the Avant-Garde アヴァンギャルドの知覚』 東京外国語大学 2016)
  • 吉本秀之 「初期のカメラ・オブスクラの批判的歴史:暗室、玩具、人口眼、写生装置?」(『総合文化研究』19 2015)

カメラ オブスクーラを描いた版画の写真複製
アムステルダム国立美術館  https://www.rijksmuseum.nl/nl/rijksstudio

ゲンマ・フリシウスの肖像 1572年
アムステルダム国立美術館  https://www.rijksmuseum.nl/nl/rijksstudio

レオナルド・ダ・ヴィンチの肖像 16世紀
アムステルダム国立美術館  https://www.rijksmuseum.nl/nl/rijksstudio

ヨハネス・ケプラーの肖像 1828年 - 1853年