戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

樟脳(日本) しょうのう

 日本で生産された樟脳。樟(クスノキ)を加工して作られた。安価な竜脳と位置付けられ、殺虫剤や火傷の際の鎮痛剤として用いられたとみられる(『本草品梨精要』)。特産地は九州地方、特に薩摩国。17世紀以降、オランダによって海外に輸出された。

日本での樟脳生産の始まり

 中国では既に12世紀に樟脳生産が行われており、15世紀には日本にも輸出されていた*1。この過程で、中国から日本に樟脳の製法が伝わったと考えられる。

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 慶長九年(1604)刊行の『日葡辞書』には、「ショウノウ、安価なカンフォラ(竜脳)」「ショウノウ ヤク(焼く)、カンフォラ(竜脳)を作る」と記されている。このことから、既に17世紀初めには、九州地方に樟脳製造がある程度広がっていたことが分かる。その開始年代は、遅くとも16世紀後半と推定される。

樟脳の製法

 日本での樟脳の製造方法について、安永四年(1775)に来日したスウェーデンの植物学者ツンベルグが『ツンベルグ日本紀行』において詳細に記述している。

薩摩の国及び五島からは野生の樟木が沢山出る。欧羅巴で消費する樟脳の殆んど全部がこの二ヶ所で出るのである。日本人は樟の木の幹及び根を小片に裁断し、水を一杯に盛った鐡鍋のうちでこれを煮て、上に木の蓋をしておく、蓋は非常に膨れてゐる。この蓋の膨れてゐる部分に麥藁(むぎわら)や乾草を一杯に入れておいて、火熱により蒸気となつて上つて来る樟脳をとるのである。樟脳は藁に着くから、これを離すと粉になって落ちる。これを桶のうちに収め、この桶を和蘭会社が重さで買ふのである。

 同様の製法は、正徳三年(1713)刊行の『和漢三才図会』や、宝暦四年刊行の『日本山海名物図会』でも紹介されている。この樟脳製造方法は、「焼き出し法」(昇華式・ほうろく式)という。19世紀後半には、より効率の良い「蒸留法」が開発された。

樟脳の生産地

 樟脳の生産地としては、薩摩が特に有名だった。正保四年(1657)刊行『毛吹草』には、薩摩名物の中に「生脳」(樟脳)、「楠木」が記されている。前述の『和漢三才図会』には、薩摩以外に日向、大隈が挙げられている。

 天保十四年(1843)の『三国名勝図会』によると、薩摩国内の樟脳生産地は、樋脇・中郷・羽月、そして大隈国では大根占・鹿屋・種子島、日向諸県郡では吉田・加久藤・真幸の諸郷とされている。なお先述のツンベルグは、五島も産地に挙げているが、日本の史料では確認できない。

 オランダ東インド会社の帳簿では、寛文元年(1661)まで樟脳の名称は"Japansche Campher"(日本樟脳)であったが、以降は"Satumase Campher"(薩摩樟脳)と記される場合も見られるようになり、寛文十一年(1671)頃から樟脳の名称としては「薩摩樟脳」に統一された。このことからも、輸出される樟脳の殆どが、薩摩産であったことがうかがえる。

海外への輸出

 薩摩等で生産された樟脳は、海外にも輸出された。元和五年(1619)、朱印船によって樟脳6〜7千斤がシャム(タイ)に送られている。

 元和六年(1620)からはオランダ東インド会社の記録が残っており、輸出の詳細が分かるようになる。元和七年(1621)と元和八年(1622)は、平戸の商人・平野屋作兵衛とタニヤ・リヒョウエから現金で買い取るか、あるいは各種商品の支払い分として樟脳を受け取っていた。その後樟脳は輸出されず、寛永四年(1627)にシンレーなる者から樟脳3万1962斤を買い取っている。

 以後も樟脳の輸出は行われたが、薩摩を支配する島津家が、たびたび樟脳製造を禁止しており、オランダ商館は樟脳の確保に苦心している。寛永十六年(1639)に薩摩の樟脳製造が禁止された時の『平戸オランダ商館の日記』によれば、樟の森の管理人が、島津家の御用木を伐採し、不正に樟脳製造に使用する例が多発していたらしい。島津家の禁令は、森林資源保全の側面があった。

樟脳の輸出先

 1623年(元和九年)11月、オランダ商館があるインド北西部のスーラトからペルシアへの船荷に3360カティーの樟脳があり、これは日本産と考えられている。仕入価格は840グルデンであったが、ペルシアにおいて7565グルデンで販売された。その後も日本の樟脳はスーラト経由でペルシアに輸出され続けている。1679年(延宝七年)の史料には、ペルシアにおいて有利な販売ができる日本商品は、樟脳と磁器であるとの記載がある。

 17世紀においては、スーラトをはじめ、コロマンデル、ベンガル、マラバルなどのインドの各地方にも日本産樟脳が送られた。オランダ本国からも1644年(寛永二十一年)に注文があり、17世紀末までには多くの樟脳が送られた。18世紀になると、インドやペルシアよりもオランダへ大量に送られるようになる。

参考文献

  • 鈴木康子「樟脳生産と販売」(『近世日蘭貿易史の研究』 思文閣出版 2004)
  • 宮下三郎「竜脳と樟脳、天工から人工ヘ」(『関西大学東西学術研究所紀要』22 1989)

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楠木 from 写真AC

*1:応永二十八年(1421)、渋川満頼が朝鮮に象牙二本、犀角三本とともに樟脳五斤を贈っている。琉球船から購入したものを、朝鮮に再輸出したとみられる。