17世紀初頭、マルク諸島のテルナテ島に住んでいた日本人。テルナテ島を含むマルク諸島には、オランダ東インド会社に雇われた日本人が連れてこられていた。フワンもその一人だったとみられる。
バダヴィア行きの船
1631年(寛永八年)、テルナテ島のマライエン在勤オランダ東インド会社員決議録の中に、近く出帆するス=フラーフェンハーフ号とゼーブルフ号の両船で、バダヴィアに赴くことを許可した人物の一覧がある。
そこに4月4日、日本兵フワン・ロピスと、その妻子について、彼らの申請が認められて、バダヴィア行きが許可されたことが記されている。
ティドレ島城塞攻略戦
フワンが日本兵とされているように、マルク諸島の日本人の多くは傭兵であった。記録に見えるマルク諸島で初の日本人の足跡もまた、スペイン人との戦闘だった。
1613年(慶長十七年)2月末日、日本からジャワのバダヴィアに帰航するオランダ船が、雇用契約した日本人の兵士、水夫、職人、計68名を乗せて出航。同年7月初旬、艦隊司令官ヤン・ピーテルスゾーン・クーンが、13隻の艦隊と690名の兵士を率いて、マルク諸島のティドレ島への遠征に向かっている。このとき日本兵40名の一隊が従軍しており、バダヴィアに到着した日本兵が、直ちに動員されたとみられる。
9月9日、クーンはスペイン人が拠っていたティドレ島の旧ポルトガル城塞を攻略した。クーンは戦況報告の中で、日本兵が常にオランダ兵と等しく勇戦し、その隊旗が最初に城壁の上に立ったと述べている。一方で、余りにも大胆で剽悍であるため、多数の戦傷者を出したとも伝えている。
マルク諸島における日本人
1616年(元和二年)6月、クーンは平戸商館長ヤックス・スペックスに対し、日本で購入した船で米穀や必需品をマルク諸島に輸送する場合、船員に日本人を採用するよう命じている。
クーンは日本人を有用と感じていたが、他のオランダ人は必ずしもそうでなかった。1616年(元和二年)7月、テルナテ島にいたマルク諸島長官ラウレンス・レアールは、「マルク諸島来着時から日本人を雇っているが、彼らは狡猾で厄介だ」と述べ、結局はオランダ人より割高であると、アムステルダムの本社に報告している。
派遣船隊司令官ステーフェン・ファン・デル・ハーヘンも、「日本兵は非常に危険であって、制御することが困難」とし、余り有用ではないと報告。日本人の大工や石工、鍛冶職においても同様だ、としている。
否定的な評価はありながらも、日本人はマルク諸島に連れてこられていた。1620年(元和六年)度のマルク諸島各地在勤東インド会社使用人名簿によれば、オランダ人440名、中国人33名に対し、日本人も20名在住*1していた。
スペインとの戦い
当時、オランダとスペインは、テルナテ島の争奪戦を繰り広げていた。1621年(元和七年)、フレデリック・デ・ハウトマンが新たにマルク諸島知事に任命され、6月にテルナテ島に着任。1年半にわたって同島南岸のカラマタ城塞に籠城してスペイン人の来襲に備えた。この時、彼の配下にはオランダ人40名、マルダイケル(解放奴隷出身者)25名、日本人10名*2がいた。
同年10月29日、スペイン人との戦闘が発生。スペイン側は戦死者11名、戦傷者30〜40名であったのに対し、オランダ側ではオランダ人7名、日本人3名、テルナテ人1名が戦死し、20名が負傷した。
カラマタ城塞の戦いの少し前、元和七年(1621)七月に日本の徳川幕府は、日本人傭兵の国外輸出を禁止した。これにより、テルナテ島およびマルク諸島の日本人の補充はほぼ不可能となった。
テルナテの日本人キリスト教徒
1623年(元和九年)8月29日現在のマルク諸島在勤会社員名簿によれば、テルナテ島にはオランダ東インド会社の使用人として5名の日本人が確認できる*3。このうちの1名は同島マライエンにおり、「日本人キリスト教徒」と記されている。
このマライエンの「日本人キリスト教徒」こそが、フワン・ロピスと同一人物と考えられている。1631年(寛永八年)4月4日、上述のとおり、フワン・ロピスは妻子を伴ってバダヴィア行きの船に乗船することを許可された。少なくともフワンは、テルナテ島に9年間在勤していたことになる。