戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

マスリパトナム Masulipatnam

 インド東岸のほぼ中央に位置する港市。コロマンデル海岸の北部の中心として16世紀後半から18世紀にかけて栄えた。特に17世紀には、ベンガル湾沿岸各地の港のみならず、紅海、ペルシア湾の諸港との間にも交易関係を持ちつつ、一大国際交易港として繁栄した。

ゴールコンダ王国の勃興

 16世紀前半、バフマニー朝がヴィジャヤナガル王国などの侵攻で衰退し、同朝の勢力はインド東岸から後退していた。

 1530年(享禄三年)頃、バフマニー朝から独立していたスルターン・クリー・クトゥブル・ムルクは、一連の遠征の中で多数の城砦を征服し、「ワランガルの境界からマスリパトナムとラージャムンドリーの港まで」のエリアに勢力を拡大。後にゴールコンダ王国の創始者となる*1

 16世紀後半には、クリシュナー川下流域で概ね北岸のコンダパッリを中心とする領域をゴールコンダ王国が、コンダヴィードゥをはじめとする南岸の領域をヴィジャヤナガル王国が支配下に置いて対峙した。マスリパトナムはコンダパッリ側に位置しており、ヴィジャヤナガル軍の攻撃対象とされたこともあった。

 1565年(永禄八年)、ヴィジャヤナガル王国はゴールコンダ王国を含むムスリム五王国連合軍にターリコータの戦いで敗北し、王都ヴィジャヤナガラまで侵攻を受けて勢力が衰退。1579年(天正七年)、ゴールコンダ王国はイブラーヒーム(スルターン・クリーの子)の治世末期にコンダーヴィドゥを陥落させ、クリシュナー川両岸の沿岸地域征服に成功した。

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マスリパトナムの台頭

 マスリパトナムが港市として台頭し始めたのは1560年から70年代頃であり、さらに1570年から80年代に国際的な交易港、特にベンガル湾沿岸諸国との交易で重要度を増していたという。交易相手は、第一に東南アジア・スマトラ島北端のアチェ、次にマレー半島の諸港、ペグー、さらにはアラカンが重要であった。

 一方で上述のように、この時期は沿岸地方一帯に対するゴールコンダ王国の支配が確立されていなかった。後背地の治安状況が改善され、港と都との往来がより安全に行われるようになるのは、16世紀末頃と言われている。

 ヨーロッパ人の進出は17世紀初頭から本格的に始まった。まずオランダ東インド会社が1606年(慶長十一年)にこの地に商館を置いた。ついで1611年(慶長十六年)にイギリス東インド会社の最初の船がやって来た。デンマークは1625年(寛永二年)に商館を開き、17世紀後半にも小規模ながらここを拠点の一つとしていた。

 フランスは1670年(寛文十年)ごろからこの地への進出を試みている。他にもこれら会社に所属しない多くの商人たち、ポルトガル人やアルメニア人、ユダヤ人などもこの町を訪れた。

 当時のコロマンデル海岸の後背地はインド有数の綿布の生産地であり、特にヨーロッパの商人の商人たちにとっては現在のインドネシア地域において香辛料を入手するための有利な交換商品として重要であった。

「王の船」による紅海方面との交易

 16世紀末以降、ヨーロッパ語史料において、しばしば「王の船」と呼ばれる船が、メッカへの巡礼者を乗せてマスリパトナムと紅海の間を運航してたことが伝えられている。例えば1590年(天正十八年)、数年の交渉を経て、紅海へ向かう船の為の航海許可証がポルトガルによって発給されている。

 1612年(慶長十七年)から1626年(寛永三年)のスルターン・ムハンマドの時代には、「王の船」はマスリパトナムからムハー*2に毎年送られるようになっていたという。これらの船は、マスリパトナムを1月に出帆し、9ー10月に帰港した。

 1613年ー14年、イギリス東インド会社のピーター・フローレスは、マスリパトナムで「王の船」が「大量の米、鉄、インド産の布」を積載してムハーへ向けて出航するところを見ている。また1621年(元和七年)、22年(元和八年)にムハーから帰ってきた「王の船」があったことも伝えられている。

 「王の船」の役割は巡礼者の輸送だけでなく、紅海方面からオスマン朝のスルターニー金貨、スペインのレアル銀貨を持ち帰ることにあった。またアラビア馬もこの船によってもたらされた。馬は一度の輸送では大量に入手できず、1隻の船で運ばれてくるのは6頭ないし8頭程度であったという。

スルターン・アブドゥッラーの訪問

 1639年(寛永十六年)から40年にかけて、スルターン・アブドゥッラーはマスリパタム訪問の為の旅に出る。出発に先立ち、マスリパタムで総督(ハヴァールダール*3)を務めた経験を持ち、当時サル・ミハイルの地位にあったミール・ムハンマド・サイード・アルディスターニーが、命令を受けてスルターン一行が通るための交通路の整備を行なった。

 12月6日、スルターンはマスリパトナムに到着。8日、スルターンはヨーロッパ諸国の商館を訪問。この時オランダは「300パコダ相当のルビー等」を献上して高い評価を得た上に、航海期に入って船が到着し品物が届けられたら「1頭の象と5頭の馬」を贈ることを約束して、その後の勅令によって免税などの特権を認められている*4

 翌日、スルターンはマスリパトナムの「主だった商人たちと外国の商人たちの全部の家々がその中にあった別の地区」へ行き、商人たちの家を訪れた。その後も「ドービーガート」で漁を、塩田では製塩作業を見るなど、港とその周辺各所を巡覧した。

 足掛け10日間の滞在中、スルターンは上記のように港とその周辺各地を見て回り、12月15日に帰路に着いた。

年代記が伝える繁栄

 ゴールコンダ王国の年代記によれば、スルターン・アブドゥッラーの訪問以前、一時的にマスリパトナムとアラブ方面の諸港との船の往来が途絶えたことがあったらしい。

 その詳細は不明だが、1620年代にはマスリパトナムにおいてハヴァールダールとの不和に起因するイギリスやオランダによる港の封鎖などの事件があった。また1630年代には天災が続いて社会が混乱し、ムガル帝国のシャー・ジャハーンによるデカン遠征も行われた時期にあたる*5

 しかし、その後マスリパトナムからの航海活動は活況を呈するようになる。

 年代記によれば、1622年(元和八年)にペルシア湾におけるポルトガルの拠点・ホルムズをイラン(ペルシア)のサファヴィー朝が占領。同朝はホルムズに代わってバンダレ・アッバースを栄えさせ、ヒンドゥスターンの諸港から諸船が同地に向かったという。

 そして「繁栄せる港マチリパトナム」からも、ムスリムの商人やイギリスとオランダのヨーロッパ人たちが大船を造ってバンダレ・アッバースに行っているとしている。

 1637年(寛永十四年)にはスルターン・アブドゥッラーの祖母(スルターン・ムハンマドの生母)と叔母が、大商人マリク・ムハンマドの用意した大型船*6に乗ってマスリパトナムを出航。ここからバンダレ・アッバースに向かい、上陸してナジャフ、カルバラーなどのシーア派聖地を巡り、メッカとメディナにも赴く計画であったとされる。

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 また1639年(寛永十六年)12月、マスリパトナムに到着した日の宴の席で、スルターン・アブドゥッラーが受けた説明が年代記にみえる。

 これによれば、マスリパトナムの港からはベンガル湾の北から東縁の諸地域*7やセイロンやモルディヴラクシャドウィープ等の島々へ、またアラブやアジャム(ペルシア)の諸港へと、多くの船が行っており、港の入口では年中各方面からの船が往来していたという。さらにスルターンは、マスリパトナムには世界各地からの来住者が数多くいることも知った。

 滞在の終わりに、スルターンは宝石の仲買手数料を免除した。このことで利益を得たのは、「ペグーからルビーを持ってきた商人たち」だったとも伝えられている。

ペルシア湾方面との交易

 マスリパトナムの有力商人ミール・カマールッディーンはペルシア方面との交易に関わっていた。ある時「マンスーリー号」と呼ばれる船を初めてペルシア湾に送り出した際、既にイギリスが大量の荷の輸送を請け負っていたため、出発前から大きな収益は見込めない状況にあった。

 それでもミール・カマールッディーンは、「ゴールコンダ王の名において」船を送り出すことを決定。彼の語るところによれば、ムガル帝国領を通らずに海路で王の大使と何頭かの馬とその他の品物をペルシアからコロマンデル海岸にもたらすことが出来ることが重要であった。

 アブドゥッラーの治世後半になると、ペルシア湾航路における「王の船」の活動が確認されるようになる。例えば、1661年(万治四年)1月17日にマスリパトナムを出発し、10月にマスカット経由でペルシア湾から戻ってきた船があった。なおこの頃は、ムハーなど紅海方面への派遣も行われていた*8

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ベンガル湾沿岸・東南アジアとの交易

 ベンガル湾沿岸諸港との交易は、17世紀半ばまではミール・カマールッディーンやミール・ムハンマド・サイードなどの商人や有力者によって担われていた。しかしスルターン・アブドゥッラーの治世半ば以降、東南アジア方面への「王の船」派遣の例が度々見られるようになる。

 オランダ東インド会社の記録では、1649年(慶安二年)9月、ゴールコンダ王国のスルターンの費用で2隻の船がテナッセリムに向け出航。同月29日には1隻がペグーに向けて送り出された。

 また1660年(万治三年)7月には、ゴールコンダ王の所有船が「布の大きな包み300個と300人の奴隷」を積んでアチェに到着。先立って4月にはミール・ムハンマド・サイードの持ち船もアチェに来ていた。

 この2隻はいずれもマスリパトナムのオランダ商館で発給された航海許可証を備え、11月にコロマンデル海岸に戻っていった。この時、「ゴールコンダ王に宛てたアチェの女王からの書簡と贈り物」が積荷とともに運ばれていったが、それはスルターンからアチェの女王に送られたものに対する返礼であったという。

 1666年(寛文六年)には、テナッセリムに「ゴールコンダ王の大使」が当地の王に宛てた親書を持ってやってきて、ゴールコンダ王国の織物をもたらし、その代価で象を購入することを申し入れて喜んで受け入れられたという。前年にアユタヤ王国のナライ王がゴールコンダ王国に使節を送っており、テナッセリムへ来た上記の大使はその返礼として派遣されたものと考えられている。

 さらに1650年頃のマカッサルには、ミール・ムハンマド・サイード代理人がいたという。スルターン・アブドゥッラーも1660年代にマカッサルにペルシア人代理人を置いていたと伝えられる。

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関連人物

参考文献

  • 和田郁子 「インド・ゴールコンダ王国における君主と港市・海上交易の関係ースルターン・アブドゥッラー(1626ー72)の治世を中心にー」(『東洋史研究』66 2007)
  • 和田郁子 「インド・ゴールコンダ王国の港市マスリパトナムー17世紀前半のオランダ商館の日記を中心に」(歴史学研究会・編『港町の世界史③港町に生きる』 青木書店 2006)

マチリパトナム(マスリパトナム)の町の鳥瞰図 1675 - 1725
アムステルダム国立美術館  https://www.rijksmuseum.nl/nl/rijksstudio

アジア図(ウィレム・ヤンソン)1635年頃 出典:古地図コレクション(https://kochizu.gsi.go.jp/) ※マスリパトナム(Masulipatnam)周辺を切り取り加工しています

*1:1543年(天文十二年)、スルターン・クリーは暗殺される。以後7年間、ゴールコンダ王国は内紛と混乱が続き、その勢力は一時、沿岸部から大きく後退した。

*2:イエメン西部の港町。モカとも呼ばれた。紅海の入口であるバーブエルマンデブ海峡に面している。

*3:ハヴァールダールとは、毎年まとまった額の金を払うことにより、徴税をはじめとする業務を請け負っていた役職者で、ヨーロッパ語史料ではしばしば「総督(governor)と呼ばれる。

*4:イギリスやデンマークは大した利益を得ることはできなかった。

*5:この遠征により、ゴールコンダ王国と同じくハフマニー朝の後継王朝であったデカン地方東部のアフマドナガル王国が滅亡した。

*6:ペルシア出身の有力商人ミール・カマールッディーンがかつて所有していた大型船であるという。

*7:マラッカ、スマトラ、テナッセリム、ペグー、ベンガルなど

*8:1663年2月、ムハーへ送られるはずであった「王の船」が漏水のためにマスリパトナムに引き返してきたという。