17世紀後半、肥前ではオランダからの注文を受けて多くの磁器が生産され、海外に輸出された。その中にはチョコレートを飲むためのカップ、すなわちチョコレートカップがあった。
ヨーロッパでのチョコレート普及
チョコレートはカカオから作られた飲み物であり、南アメリカにルーツがある。ヨーロッパでは、当初は「人間よりは豚に相応しい飲み物」(『新世界の歴史』1575年)ともみなされていた。
しかし、シナモンなどの香辛料や砂糖と組み合わせることで、しだいに飲用が普及。この過程で、(理由は不明ながら)背の高いカップがチョコレート飲用のカップとして選ばれるようになった。
ヨーロッパでチョコレートの飲用習慣が広がると、絵画等にチョコレートカップが描かれるようになる。1652年(承応元年)のアントニオ・ペレーダ・イ・サルガドの絵には、銀皿の上に置かれたチョコレートカップが描かれている。
肥前でのチョコレートカップ生産
1641年(寛永十八年)にカリブ海のドミニカ沖で沈んだコンセプシオン号の積荷の中に、中国磁器のチョコレートカップとみられるものが含まれていた。このことから、1640年代頃には中国の景徳鎮等で生産が行われていたとみられる。しかし1644年(寛永二十一年)の明朝滅亡とその後の混乱で磁器輸出が激減。代わって肥前の磁器(伊万里焼)が、オランダや中国商人によって輸出されるようになる。
肥前でのチョコレートカップ生産は、1659年(万治二年)のオランダによる大量注文以降とみられる。この時の注文内容には、日本の生活様式にはないものが含まれており、手本付きの注文生産が行われたと考えられている。
長崎商館長ヘンドリック・インダイク発行の送り状によれば、1662年(寛文二年)に輸出された86,329個の磁器の中に「hooge copiens」250個があった。hoogeとは、腰高、背が高いという意味であり、hooge copiensはチョコレートカップを指す可能性があるという。1663年(寛文三年)、バダヴィアの注文によって船に積み込まれた磁器の中に、diepe copiens「深いカップ」1000個とあるものも可能性があるとされる。
17世紀後半のチョコレートカップは、有田の赤絵町遺跡からも出土している。有田の内山地区で生産されたものとみられている。同遺跡からは18世紀前半の色絵チョコレートカップもみつかっている。受皿と組になっており、また蓋がつくものもあった。
海外出土の肥前製チョコレートカップ
肥前製のチョコレートカップは、世界各地の遺跡で出土例がある。ヨーロッパでは、スペインのカディスで肥前の染付チョコレートカップが出土している。1641年(寛永十八年)のコンセプシオン号の目的地はスペイン本国であり、スペインではチョコレートカップの需要があった可能性は高い。
その他にも、東南アジアのフィリピン・マニラ、新大陸のメキシコ*1、グアテマラ*2、キューバ*3、ペルー*4の遺跡から肥前磁器の染付や色絵、瑠璃釉金彩のチョコレートカップの出土が確認されている*5。いずれもスペインのガレオン貿易のルート上に位置している。
チョコレートと日本
一方、日本で最も古いチョコレートの記録は、寛政九年(1797)に廣川獬が著した『長崎聞見録』にみられる「しよくらとを」とされる。廣川獬は下記のように記している。
しよくらとをハ、紅目人持渡る腎薬にて、形獣角のごとく、色阿仙薬に似たり。其味ひは淡なり。其製は分暁ならざるなり。服用先熱湯を拵へ、さてかのしよくらとを三分を削り入れ、次に鶏子一箇、砂糖少し。此三味茶筅にて、茶をたつるごとく、よくよく調和すれは、蟹眼出る也。是を服すべし
チョコレートは、オランダ人によって長崎にもたらされていた。当時は、熱湯に入れて泡立てて、砂糖などを入れて飲まれていたことが分かる。また薬として認識されていたこともうかがえる。
参考文献
*1:中南米で最も数多くチョコレートカップが出土している都市がメキシコシティ。最も多くの肥前のチョコレートカップが出土している遺跡が、オアハカのサント・ドミンゴ修道院遺跡。
*2:グアテマラでは、アンティグアのサント・ドミンゴ修道院遺跡などの各遺跡から17世紀後半の肥前の染付、色絵、瑠璃釉色絵チョコレートカップが出土している。
*3:ハバナの旧市街の遺跡から肥前の染付チョコレートカップが出土している。
*4:リマ市内のボデガ・イ・クアドラ遺跡など各遺跡から17世紀後半の肥前の染付チョコレートカップが出土している。
*5:これらの遺跡からは、肥前磁器だけでなく、17世紀中頃および17世紀末から18世紀前半の景徳鎮や徳化窯系の染付・色絵チョコレートカップも出土している。