戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

カミ Khami

 ジンバブエ高原南西部を支配領域としたトルワ王国の王都。現在のジンバブエ共和国第2の都市ブラワヨの西20キロメートルに位置するカミ遺跡がその跡地と考えられている。

トルワ王国

 15世紀頃にグレートジンバブエが没落。その後のジンバブエ高原には、北東部のムニュムタパ王国と南西部のトルワ王国が興った。トルワ王国の支配した高原南西部は放牧に適した草原地帯であり、金の産地でもあった。

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 1506年(永正三年)、ポルトガルディオゴ・デ・アルカソバは国王宛の報告書の中で、「チャンガミレ(主人の意味)の血統の一人、トロア」の下に結集した高原南西部の勢力が、ムニュムタパ王国と戦争状態にあることを記している。

カミ遺跡

 トルワの人々は、15世紀中頃から17世紀頃にかけて、多数の「石の家」(ジンバブエ)を建設した。そのうち最大のものがカミ遺跡であり、ここがトルワ王国の王都であったと考えられている。

 カミ遺跡は、カミ川に沿って幅500メートル、長さ1キロメートルほどにわって集落址があり、人口は7000人と推定されている。中央の丘陵部分に石の遺跡がみられ、丘の東に家畜の囲い場、南側の開けた場所に寄り合いの場(ダレ)があり、ダレと反対の北側に、王の私的空間や宮廷人の住空間が置かれていたと推定されている。

 中央の丘には王が住んでおり、丘の西側に登り口があった。登り口辺りの石の壁は手が込んでおり、石ブロックを一つおきに窪ませて作ったチェック模様がふんだんに施されている。丘の上には、王の住居、会合の広場、接見の棟、祈祷師の棟の跡がみられる。

交易と産業

 カミ遺跡からは、多くの海外輸入品が出土している。中国明朝の中国青白磁(16世紀末から17世紀)、ポルトガルで焼かれた中国産陶磁器の模倣品(17世紀中頃)、ドイツ製塩釉炻器(16世紀頃)、北アフリカ製と思われる緑焼きの水差しの頭部(17世紀)、イベリア半島製の打ち出し模様付き銀製品の一部(17世紀初頭)などが代表的である。いずれもポルトガルのアフリカ東海岸進出以降のものであり、トルワ王国が16・17世紀のインド洋交易につながっていたことがうかがえる。

 また陶器・滑石製の紡錘輪と、武器を包んでいた麻布も出土している。カミでは麻の栽培と紡織が行われていた可能性が指摘されている。土器の製造も行われており、その土器壺は、赤みが強く、薄作りであるとされる。仕上げの丹念さ、色付けの多彩、模様の精緻さ、フォルムの自由度において、他の追随を許さない、との評価もある。

 なおカミ式の土器は、ツラメラなど南方のリンポポ川中流域の遺跡からも発見されている。トルワ王国の影響力が、この地域までおよんでいたことがうかがえる。

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遷都

 丘の頂上の王の住居趾には、炭素測定で17世紀前半とみられる火事と破壊の痕跡がある。この時、カミは最終的に放棄されたと推定されている。文献によれば、1640年代、王国内で王族の内戦があったという。

 トロワ王国の王都は、今日のダナンゴンベ遺跡に移ったと考えられている。同遺跡は、カミから東に直線で約100キロメートルほど離れた、灌木林の中にある。ダナンコンベには半径1キロメートルの範囲で住居の跡があり、中心の高台の上に王の住居や巨大な穀物倉などがあり、横の土手は壇上に築かれ、それを石の壁が取り巻いている。石造建築物は、カミより小規模であるが、全般にカミよりももっと装飾的であると評価される。

参考文献

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世界遺産 国史跡カミ遺跡群