戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

ブダ Buda

 ハンガリー中央部のドナウ川西岸の都市。13世紀、ハンガリー国王ベーラ4世によって築かれた。19世紀、北方の都市オーブダおよびドナウ川対岸の都市ペシュトと合併し、「ブダペシュト(ブダペスト)」となる。

都市の始まり

 1241年(仁治二年)春、バトゥ率いるモンゴル軍がカルパチア山脈を越えてハンガリーに侵入。4月にはベーラ4世率いるハンガリー王国軍がモヒの戦いで壊滅した。モンゴル軍は冬季にドナウ川が氷結するのを待って1242年(仁治三年)1月、西岸の「ブダ」も攻撃し、これを完全に焼き落とした。

 1242年のうちにモンゴル軍が撤退すると、ハンガリーではベーラ4世のもとで復興が図られた。1247年(宝治元年)、ベーラ4世はドナウ川東岸の都市ペシュトの対岸(西岸)にあった「城丘」(ヴァールヘジ*1)に、石の城壁に囲まれた都市と王城の建設を開始。ペシュトや「ブダ」の住民にも「城丘」への移住と築城への協力が求められた。城は1255年(建長七年)には出来ていたと言われる*2

 「城丘」は、正式にはラテン語で「新しい丘のペシュト町」と呼ばれたが、やがて1260年代から「ペシュト新丘」「ブダ丘」と呼ばれるようになった。そして、しだいに「ブダ」という呼称が定着するようになり、その為、元の「ブダ」は「オーブダ(古いブダ)」と呼ばれるようになった。

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 なお、この時に新しいブダにやって来たペシュトの住民は、多くはドイツ系住民であったため、彼らはペシュトのドイツ語名であった「オーフェン」(ペシュト=かまど)をそのまま新しいブダのドイツ語呼称とした。また対岸のペシュトを「アルトオーフェン」(古いオーフェン)と呼ぶようになったという。

 新しいブダの建設以前、ペシュト対岸の中心地であったキシュペシュト地区は、新しいブダに飲み込まれた。ここはブダの丘に住むようになったドイツ系市民から「クレンフェルド」「ケレンフェルド」と呼ばれるようになり、この名称は1291年から公文書にも使われるようになった。またケレンフェルドの中心は、聖ゲレールトに捧げられた教区教会であったので聖ゲレールト町とも呼ばれた。

ブダの構造

 1250年代、王室庁(カマラハーズ)は「城丘」の北部にあって、ドナウ川に面した所にあり、それに連なって南へ向けてドミニコ派修道院聖母マリア教区教会(現在のマーチャーシュ教会)*3などが立ち、現在のディース広場(儀礼広場)にあたる大市場までが、王城つまり都市であったとされる。その周りが石の壁で囲まれていた。その後、1300年(正安二年)までに、それよりも南の丘が壁で囲まれることになった。

 「城丘」では、ペシュトから来たドイツ系住民が、聖母マリア教区教会の周りに住み、オーブダやペシュトや「城丘」の麓である「城の麓」(ヴァールアヤ)から来たマジャル系住民は、現在のウィーン門に近いマーリア・マグドルナ教会の周辺に住んだという。ペシュトから来たドイツ系の人々は、ペシュト市の印章や都市特権を携えてやってきており、「城丘」に作られた都市の実権は、彼らが握った。

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 ブダの住民は、ドイツ系もハンガリー系もともに1264ー65年に「市民」の地位を獲得。ブダの「市民」は、1244年(寛元二年)にペシュトに与えられた都市特権を、この都市にも適用されるよう王に求め、ベーラ4世からは司祭選出権、判事選出権などかなりの特権を獲得し、1287年(公安十年)にはラースロー4世から全国「市」を開設する特権を獲得した。

 行政の面では、当初ブダは、国王の任命する一人の「ブダ城主」(レクトル)の支配下に置かれ、それを同じく国王の任命する「城代」(ヴァールカピターニのちにヴァールナジ)と首席判事(フェービーロー)が補佐することになっていた。しかし「市民」はこれに反対して、1276年(建治二年)からは「市民」の選ぶ「判事」(ビーロー)と名士の中から選ばれた12名の「参事」が市政を司ることになった。ただし、これらの役職は全てドイツ系の「市民」であったという。

カーロイ1世との戦い

 1301年(正安三年)、アンドラーシュ3世が死去し、ハンガリー王家であったアールパード家が断絶した。当時の教皇ボニファティウス8世はアンジュー家のカーロイ・ローベルト(後のカーロイ1世)のハンガリー王位継承を支持していたが、ポーランド王ヴァーツラフ2世がこれに介入し、ブダの「市民」もカーロイに敵対した。

 カーロイは1302年(乾元元年)にブダを包囲するも、城を落とすまでには至らず、1307年(徳治元年)にようやくブダを攻め落として王となり、アンジュー朝を興す。ハンガリー王となったカーロイ1世は、1309年(延慶二年)にブダの聖母マリア教区教会において「聖なる王冠」の無いまま戴冠式を行った*4

 1311年(応長元年)、ブダは再びカーロイ1世と敵対。しかしこの時、ハンガリーの有力な豪族であったチャーク・マーテーが同じくブダを攻撃してきており、ブダの「市民」はカーロイ1世を支持し、騒動はおさまった。

15世紀のブダ市とその周辺

 1347年(貞和三年)、アンジュー朝のラヨシュ1世(カーロイ1世の子)が、ヴィシェグラードからブダに王宮を移す。王は城と都市とを区別するために、これまでの王室庁を市内から離して「城丘」の南の部分に王宮の建設を開始。この王宮は、15世紀に入ってジグモンド*5、マーチャーシュ1世の時代に建設が進み、諸王はブダを居城とするようになった。この時代にブダは国の首都に相当する、重要な都市となる。

 ブダのドイツ系住民は聖母マリア教区教会を拠点としたのに対し、ハンガリー系住民はマーリア・マグドルナ教会を拠点とした。マーリア・マグドルナ教会は、モンゴル撤退の後の13世紀の中頃に建築が始められ、1257年(正嘉元年)に初めて史料上にみえる。

 初めは小さなフランチェスコ派の教会だったが、ドイツ語を話すブダの「市民」が多い中で、ハンガリー語母語とする人たちの礼拝所として、14・15世紀の間に徐々に拡大し、やがて高い塔を持つ教会となった。

 1390年(明徳元年)、マーリア・マグドルナ教会は「城丘」の北部を自らの教区として宣言。この時期から、北はハンガリー系住民、聖母マリア教区教会のある中央部はドイツ系住民、そしてまた、南はハンガリー系住民が住むという形になったとされる。

 「城丘」のブダ市の周りにも、ブダ市の領域は広がっていった。丘とドナウ川の間の「城の麓」(ヴァールアヤ)には、マルティール、聖イシュトヴァーン、聖ペーテル街区が成立。「城丘」の北には、タシェンタル街区とトートファル街区ができた。ここまでは壁で囲まれたブダ氏となった。

 このさらに北のフェルヘーヴィーズは独自の行政単位を構成した。ケレンフェルド(キシュペシュト)は、依然としてペシュトの一部と見做されていたが、14世紀の間にその一部がペシュトから分かれてブダに所属するようになり、その中心がアルヘーヴィーズと呼ばれるようになった。アルヘーヴィーズの周りは土盛りで囲まれ、そこにはルダシュ温泉の起源とされる温泉が作られたという。

ブダの経済と社会

 14・15世紀、大きな繁栄期を迎えたブダの町には3つの市場があった。一つは、今のウィーン門前広場で、当時は土曜市広場と呼ばれていた。ここは、町の北の門の広場で、町の全ての通りが集中するところであって、毎週土曜日に市が開かれる場所であった。

 二つ目は、町の中央にある三位一体広場で、周りに教区教会、市役所などを配した広場であった。三つ目は、王宮前の今のディース(儀礼)広場であって、町の中心広場で、処刑の広場でもあった。14世紀、この広場の北端に建てられた聖ジェルジ教会にちなんで、聖ジョルジ広場とも呼ばれていた。また広場と広場を結ぶ通りには、イタリア様式を取り入れた「市民」の建物が並んでいた。

 手工業について見ると、14・15世紀の職種は、衣服業、金属加工業、食料品加工業、皮革業、建築業などが主であったとされる。この手工業者の数は、15世紀に入って急速に伸びていったという。

 ブダ市の社会は三つの社会階層からなっていた。一つは都市貴族。ドイツ系の家系で、ブダ市を支配する上層の「市民」であり、「判事」(ビーロー)はもとより、12名の市参事会員の大部分を占めた。彼らは主にも商業(反物)やぶどう園や金融業に従事していた。ハンガリー系住民にもこうした都市貴族はいたが数は少なく、12名の参事会員のポストのうちの2名にとどまっていた。

 二つ目は、下層の「市民」であった。これは貧しい商人、手工業者の大部分、つまりギルドの親方たち、小規模ぶどう園所有者、貧しい家持ちなどを含む広範な層であった。この中では、ギルドの組織が力を持っていた。金細工師、肉屋、鐘作り、ブリキ屋、家具屋など多数のギルドがあた。

 三つ目は、市民権を持たない貧民。ここには手工業の職人と徒弟、日雇い、特にぶどう畑で働く日雇い、くわ入れ人夫、その他が入った。また教会の雇用人、さらにはユダヤ教徒もそうであった。

 ただし、ユダヤ教徒は特別扱いを受けており、独自の自治を持っていて、国王に独自の税を払い、独自の裁判所を有していた。ユダヤ教徒は、聖ジョルジ教会広場に独自の地区を持っていたが、これはこの近くに造幣局があって、ユダヤ教徒がこれを監督していたからであろうと言われている。

ハンガリー王国の首都

 1458年(長禄二年)にフニャディ家のマーチャーシュ1世がハンガリー国王に即位。同王の時代、ブダの町は急速に整備された。聖母マリア教会は南西塔が建て直され、1470年(文明二年)にフニャディ家を象徴する「指輪をくわえた黒カラス」の紋章がつけられ、以後マーチャーシュ教会と呼ばれるようになった。

 マーリア・マグナルド教会の塔も高く増築され、ユダヤ通りの北側に大シナゴーグも作られた。また、ブダに水が引き上げられたのもこの時期であるという。

 15世紀後半のマーチャーシュ1世の時代には、「城丘」の南の王宮はほとんど出来上がっていたが、王は王宮を当時のルネサンス様式で大幅に改築。ルネサンスの美術を大量に購入し、2000冊からなる「コルヴィナ文庫」を作った。この「コルヴィナ文庫」は、当時のバチカンの文庫につぐ規模のもので、フィレンツェのロレンツォ・デ・メディチが自分の文庫を作る際に模倣したとも言われるという。

 国王は定期的にブダに宮廷と共に滞在し、高級貴族や上位聖職者も王についてきた。国王裁判所もブダに来たので、全国の貴族の裁判ごとはここで裁かれることになった。また聖俗の貴族に「国王自由都市*6の代表を加えた身分制議会も、定期的にブダかペシュトかラーコシ草地で開催された。

 これらにともない、ブダの行政は「市民」から国王中心の組織という性質を強める。ブダの中心の教会である聖母マリア教会の教区司祭や聖職者は王自らが選んだ。判事や参事会員は国王の名によって「城代」が承認した。王はブダの城を居城とし、ブダは本格的な意味でのハンガリー王国の首都となっていった。

オスマン帝国の侵攻 

 1526年(大永六年)8月29日、ハンガリー南部のドナウ川沿いにあるモハーチ村近郊でオスマン帝国ハンガリー王国の軍勢が戦い、ハンガリー軍が壊滅。国王ラヨシュ2世も死亡した。王妃や城代、ドイツ系の富裕な「市民」はブダから逃走し、9月、オスマン帝国皇帝スレイマン1世がブダに入った。

 その後、空位となったハンガリー国王の継承をめぐりトランシルヴァニア公サポヤイ・ヤノーシュとハプスブルク家のフェルディナント大公が抗争。はじめサポヤイがブダ城に入って身分制議会も開催したが、勢力を拡大したフェルディナンドが1527年8月にブダに入城した。

 これに対しサポヤイはスレイマン1世の支援を受け、両者は共同でブダを攻撃。フェルディナンド派はブダを放棄し、サポヤイが再び国王に戻った。サポヤイはフェルディナンド派が登用していたドイツ系の人々を一掃して、ブダをハンガリー系の住民の町とした。

 1540年(天文九年)、サポヤイが死去。1541年(天文十年)にブダはフェルディナント派の手に落ちる。しかし、その直後にオスマン帝国軍がブダを包囲。同年8月29日にブダはさんざん破壊された末に、オスマン帝国支配下に入った。

 1541年(天文十年)以後、ハンガリーは三分割され、ブダ、ペシュトを含む中央部はオスマン帝国の直轄領となった。トランシルヴァニアオスマン帝国保護国となり、ハプスブルク家が継承したハンガリー王国がポジョニ(ブラディスラヴァ)を首都として北部に残った。

オスマン帝国による都市の改造

 1541年のオスマン帝国軍による包囲戦により、ブダでは「城丘」の下の市内区と市壁に大きな損害が出たが、「城丘」は損害も無く残った。しかし、その後のハプスブルク帝国の攻撃や火災や地震などのために、オスマン帝国は絶えず城や城壁の改修と補強を実施している。

 「城丘」はドナウ川に面しない西側の防御が難しかったので、「城丘」の南西の端の「城」と「都市」の間の壁には1618(元和四年)〜21年(元和七年)の間に「カラカシュ・パシャの塔」が作られ、そこから北の方へ向けて要塞を堅固にした。

 北の壁には「シアヴシュ・パシャの塔」、西のユダヤ門のそばには「ソコル・ムスタファの塔」などが建てられた。「城丘」の西側の要塞構造はオスマン帝国時代のものが現在でも残っている。そのほか、ブダの町を囲む壁や要塞の補強も進められた。

 「城丘」内のキリスト教会も大きく変化した。聖母マリア教区教会(マーチャーシュ教会)は、1526年(大永六年)のオスマン帝国による第一次ブダ占領のあと、イスラム寺院に改造された。本格占領された1541年(天文十年)からは、「偉大なモスク」または「古いモスク」と呼ばれ、ブダにおけるイスラム世界の中心的な寺院となった*7

 一方、マーリア・マグドルナ教会はしばらくの間はブダにおける唯一のキリスト教徒の教会として残されていた。しかし1598年(慶長三年)にイスラム寺院に改修され、「勝利のモスク」と呼ばれることになった。また「城丘」の下の市内区では、トイグン・モスクが作られた。これは寺院というだけでなく、学校(マドラサ)や浴場、市場(あるいはキャラバンサライ)を持つ、コンプレックスであった。

 なお、北の土曜門の近くにあったユダヤ教徒の大シナゴーグも、オスマン帝国支配下で破壊されている。

タバーン地区の変容

 キシュペシュト(ケレンフェルド、アルヘーヴィーズ)は、オスマン帝国支配下でデバガネ、後にタバーンと呼ばれた。タバーンには6つのモスクが建てられ、そのうちの最大のものが、オスマン帝国の有名な建築家ミマル・シナン*8によって建築されたムスタファ・パシャ・モスクであった。同モスクは、もともとあった聖ゲレールト教会を改造して作られ、タバーンの中心の象徴となった。

 またオスマン帝国当局は、タバーンに3つの温泉を作った。一つは、現在のルダシュ温泉にあたるイェシル・ディレクリ温泉、二つは現在のラーツ温泉にあたるデバガネ温泉ないしはキュチュク温泉、三つ目は現在のゲレールト温泉の場所にあった野外温泉であった。

 オスマン帝国時代、タバーンには「ラーツ」と呼ばれる人々が集まり始めたという。「ラーツ」は狭義にはセルビア人を指すが、実際にはセルビア人のほかにボスニア人、クロアチア人、ギリシア人など東方正教を信じるバルカン半島の南スラヴ人が広く含まれていた。オスマン帝国トルコ人やこれら「ラーツ」は、陶磁器、金属加工、皮革業などの手工業の各種技術を持ち込んで来たとみられている。

オスマン帝国支配下のブダ

 オスマン帝国支配下のブダは、ブダ・ヴィラヤート(州)の首府となって、その長は「パシャ」の称号を持つベイレルベイ(州軍政官)であった。ただし、スルタンはブダのパシャを頻繁に交替させており*9、またブダの王宮に住むことを認めなかった。ブダの財政は2名のデフテルダールが担当。司法をカーディが司り、イスラム法に基づいた裁判を行うとともに、地方行政を監督した。

 他のオスマン帝国支配地域からの移住もあった。1558年(永禄元年)にブダに新規に入った者の内訳は、2.5%が小アジア出身、6.4%がハンガリー出身、残りはバルカン出身であった。これはボスニアセルビアマケドニアなどから来た南スラヴ人であった。

 宗教的には、62.8%がイスラム教徒、22.1%がイスラムに改宗したキリスト教徒、15.1%がキリスト教徒であった。特に、ギリシア正教徒のボスニア人が多く移住してきたと言われる。

 経済面では、オスマン帝国の外にあるハンガリー王国との商業は残って、そこを通して西欧との交易が継続した。一方で、オスマン帝国の南の方、つまりバルカンとの交易が拡大。以前は主として「小平原」*10からブダへもたらされていた穀物は、南から大量にやって来るようになった。また衣類や皮革の交易が拡大した。商業活動の担い手は、ドイツ系商人に代わって、ユダヤ教徒、南スラヴ人ムスリム商人となった。

 手工業の分野では、オスマン帝国によってギルドは解体された。ハンガリー系の手工業者は主に、食品、衣料、ついで金属の分野で活動を続けた。オスマン帝国領からも新たな手工業者が入ってきて、皮革、木工、武器生産で活躍した。

ハプスブルク帝国の都市

 1683年(天和三年)、オスマン帝国軍によるウィーン攻撃が失敗。その後の混乱に乗じ、1686年(貞享三年)7月にハプスブルク帝国および神聖ローマ帝国の軍勢がブダを包囲し、9月に攻略した。1699年(元禄十二年)1月に締結されたカルロビッツ条約により、オスマン帝国ハンガリーから撤退し、ここに145年にわたるオスマン帝国の支配が終わった。

 しかしハプスブルク帝国の包囲戦でブダはペシュトとともに大きな破壊を受け、その後の復興もハプスブルク帝国に対するハンガリー国内勢力の「解放戦争」により遅れた。1703年(元禄十六年)10月、ブダとペシュトはようやく「王国自由都市」の特権を回復。18世紀を通じて復興と発展が図られていくことになる。

参考文献

  • 南塚信吾 『ブダペシュト史―都市の夢』 現代思潮新社 2007

ブダ城 Janos ViragによるPixabayからの画像

*1:ヴァールは「城」、ヘジは「丘」を意味する。

*2:1265年完成という説もある。

*3:「城丘」の教区教会は、聖母マリア教区教会であった。この教会はモンゴル襲来後に建てられた。建設時期は1255年(建長七年)から69年(文永六年)という説がある。セーケシュフェヘールヴァールで戴冠した国王がブダで最初に姿を見せる場所がこの教会であったとされる。

*4:1310年、カーロイ1世は王冠をトランシルヴァニアのカーン・ラースローから取り戻し、セーケシュセフェールヴァールにて戴冠して正式にハンガリー王となった。

*5:ルクセンブルク家出身のハンガリー王ジグモンドは、大きなゴチック様式の王宮を作り、13世紀以来の城壁を大規模に補修し、南の王城の基本的構造を作り上げていった。

*6:租税以外の後半な自治権を持つ都市。ブダ、ポジョニ、ショプロン、ナジソンバト、バールトファ、エペリシュの7つの都市。16世紀初頭、ペシュトがこれに加わった。

*7:教会内の中性以来の装飾は取り払われ、フレスコは塗りつぶされた。絵画や彫像のいくらかは持ち去られ、イスタンブルに運ばれたものもあったという。

*8:イスタンブルの大スレイマン・モスクを設計した人物。

*9:1541年から1686年までの45年間で65人のパシャが任命されている。

*10:ウィーンとヴェスプレームの間にあるドナウ川流域の平原のことを言う。