戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

飛船小早(対馬) ひせん こはや

 対馬宗氏が朝鮮への緊急連絡の際に用いた船。小早に分類される櫓漕ぎの帆船であり、風待ちをすることなく、海峡を渡って朝鮮半島渡航することができた。「おしふね」や「渡口の船」とも呼ばれたとみられる。

江戸期の「飛船小早」

 江戸期、対馬宗家では、朝鮮へ急派される早船を「飛船」、または「御用飛船」「御関所御用飛船」などと称し、朝鮮向けの出港地である鰐浦(のちに佐須奈浦)の関所が公用船として豊崎郡(郷)の村々に役を課していた。御関所村(鰐浦・佐須奈浦・豊村)の百姓が船頭・水夫として飛船を漕いだが、危険な重労働であったため、「公役」(夫役)ではなく「相応之宛行」(飯米)が支給されていたという。

 江戸期の「中村家和船関係資料」の図面類には「飛船小早」と称する船の図面が含まれている。「小早」は櫓40挺未満の軍船であり、櫓40挺以上の「関船」(「早船」)と対置される。

 「中村家和船関係資料」所収の『諸船長サ・方・深サ書附』*1には、「飛船小隼」と「飛船小隼伝間」の規模に関する記載がある。「飛船小隼」は6〜8反帆級で、船幅は2.8〜3.3メートル、長さは11.6〜13.5メートル、深さ1.0〜1.2メートル。30人程度の水手を必要とした。延宝五年(1677)の「飛船小早参拾弍挺立積七端帆」図によると、櫓漕ぎをメインとした船ではあるが、帆柱も搭載している。

 一方で、「飛船小隼伝間」8反帆は「飛船小隼」8反帆の5分の2ほどのサイズであり、「飛船小隼」に積載する小型船とみられている。

逆風を越えて

 「文禄・慶長の役」後の講和交渉において、対馬ー朝鮮間を往復した外交文書(書契)の中に、「飛船」の呼称が頻出する。万暦三十七年(慶長十四年、1609年)二月十日付、東莱府使・釜山僉使宛て柳川智永(対馬宗氏家臣)書契案には、日本国王使(正使景轍玄蘇、副使柳川智永)は風が「不順」の為、佐須奈浦で「東風」を待ち続けているので、まず「飛船」を派遣して国王使の遅れが「怠慢」によるものではないことを報じる、とする旨が記されている。

 13艘編成の国王使船は、二月下旬から三月中旬にかけて順次釜山浦に到着しており、二月十日頃に佐須奈浦で風待ちをしていたことは事実と推定される。つまり、国王使船が風待ちを余儀なくされるなかで、「飛船」は朝鮮に渡航することができたことになる。

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 帆を使用するだけでなく、多数の水手を動員して櫓を漕ぐことで、逆風等の海況に関わりなく、対馬暖流を縦断して目的地まで急行することができたとみられる。

「おしふねヲこしらへ、かこあまた用意候て」

 文禄三年(1594)から慶長十二年(1607)の間の八月十日、対馬府中の奉行衆が豊崎郡の大浦智久と川村左馬允に「おしふね」(押船)の造船等を命じた書状がある(「大浦隆典家文書」)。

 「かうらい」(高麗=朝鮮)の「御意」により、宗氏当主・宗義智の急用が生じ、船を派遣することになったので、「おしふね」を造り、「かこ」(水手)を多数用意し、鰐浦に待機させるよう指示している。また「ふね(船)もよく候するしんさう(新造)をこしらへるへく候」とも記してあり、高品質な新造船の調達を求めている。

 「おしふね」は『日葡辞書』補遺編*2に"Voxifune"とあり、「櫓によって進む舟」と解説されている。船の動力を多分に水手の人力に依存することにもとづく呼称であり、船の型式としては「小早」に属するものと推測されるという。

 この時の宗氏は朝鮮に急使を派遣するために「おしふね」を新造しようとしており、航行目的から「飛船」とみなすことができる。

戦国期の「飛船」

 1544年(天文十三年)正月、対馬宗氏が仕立てた偽少弐殿使が朝鮮に来航。この時の書契(外交文書)に、朝鮮の漂民が「飛船」に乗っての帰国を希望している事が記されている(『中宗実録』)。16世紀中頃には、宗氏が既に「飛船」の呼称を使用していたことがうかがえる。

 また、「飛船」という呼称はないが、それに相当するとみられる事例が、天正十四年(1586)八月七日付で豊崎郡大浦の大浦伯耆守に宛てた宗義調の書状にみえる。

 この時、義調は対馬府中の御用商人・江嶋助左衛門を朝鮮に派遣するため、府中で船を準備し、「渡口」(豊崎郡鰐浦)に向けて出航するつもりであったが、風が荒いため断念したという。このため、助左衛門を朝鮮に派遣するにあたり「渡口の船」でなければ渡航できないので、「四五まいほの船」(4〜5反帆船)を大浦、西津屋、鰐浦の3か村のうちから1艘供出させるよう指示。併せて、「辛労船」ではあるが、やむを得ない事情であるとして、「船子」(水手)を「郡中」から供出させることも命じている。

 宗義調が江嶋助左衛門の派遣を急いでいること、および「船子」を動員した「辛労船」であること、の二点をふまえると「渡口の船」は櫓漕ぎで急行する船、すなわち飛船に相当する船であるといえる。

 船の規模は4〜5反帆と指定されていることから、江戸期の飛船小早の6反帆、全長11.6メートルよりも小さな船であったことはうかがえる。当時、朝鮮は船の型式に関りなく、来航する使船の全長を7.70〜9.24メートル程度と規定していた。「渡口の船」にもこれが適用されていたとみられるので、その全長は最大9メートル程度であったと推定されている。

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参考文献

  • 荒木和憲 「中世日朝通交貿易における船と航海」(『国立歴史民俗博物館研究報告 第233集』 2021)

毎日記 享保六年 国立国会図書館デジタルコレクション

*1:オリジナルの成立は元禄六年(1693)。

*2:1604年に日本イエズス会が刊行。