戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

ワイン(チェコ) わいん

 東ヨーロッパのチェコで生産されたワイン。特に南部のモラヴィア地方で生産が盛んだった。現在でも、南モラヴィアは優良なワイン生産地であり、ミロクフやヴァルチツェといった街は、ワインを主要産業としている。

チェコにおけるワイン生産の始まり

 チェコ最古の年代記で1125年(天治二年)に成立した『コスマス年代記』では、しばしば寒波によりブドウが被害を受けたことが記されている。年代記中に、直接ワインについて言及はされていないが、ワイン生産が既に行われていたことがうかがえる。

ワインの生産と消費

 中世のチェコでは、ワイン作りやブドウ畑での労働は、森のブタ番や領主の館の夜警、草刈りなどとともに、領主から農民に課される賦役労働の典型だった。農民によって醸造されたワインは、基本的に領主である教会や修道院、貴族の館で消費された。

 1130年(大治五年)にソビェスラフ1世がヴィシェフラト教会を再建した際には、新たに招聘された3人の修道士に対して、特定の所領からワインを支給することが定められている。また13世紀前半にオロモウツ助祭長ラドスラフがヴェレフラト修道院に寄進した時には、彼は魚とワインを修道士に提供すると約している。

 13世紀後半のプラハ司教トビアーシュが個人的に挙行したミサでは、参集した者すべてに魚やワイン、ハチミツがふるまわれたとされる。大量に消費されるワインを調達するため、とくに教会と修道院はブドウ作りに専従する農民を抱えていた。

都市とワイン生産

 ブドウの収穫後、腐敗する前に一気に仕込んでしまわなければならないため、ワインはブドウ畑に囲まれた聖俗領主の館が醸造の場であった。

 ただ南モラヴィアの都市のいくつかは、その郊外にブドウ畑が広がっており、ブドウ・ワイン生産と結びついていた。1365年(貞治四年)のブルノでは、都市全体の納税者の16%にあたる314人がブドウ畑を経営していた。

ワインは貴重

 ブドウ栽培には北限があり、ヨーロッパにおいてはフランスからドイツ西部、オーストリアハンガリー辺りがその境となる。このラインの北側に属するチェコでは、ワインを大量に供給できるほどのブドウ生産力が無かったとみられる。

 13世紀中頃、教皇インノケンティウス4世がプラハ郊外のブジェヴノフ修道院院長に送った書簡では、プラハにおける「ワインの大いなる欠乏」について触れている。

 このためチェコにおいては、ワインはとても高価なものだった。1350年(観応元年)頃のブルノでは、国内産ワイン1壷が128〜160グロシュ、オーストリア産になると500〜900グロシュもした。一方で同じアルコール飲料ビールは、1400年(応永七年)頃の史料では1壷が13〜16グロシェであった。

 14世紀後半のプラハでは、非熟練労働者の賃金1日分が1グロシュであったという。ビールはともかく、安い国内産ワインであっても、1壷(容量は不明)が半年分の賃金に匹敵するものだった。

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さらに貴重な外国産ワイン

 既に述べたように、ブルノでは国内産ワインの価格に対し、オーストリア産ワインは5〜7倍もの高価だった。

 1325年(正中二年)には、国内産ワインが飲める場合、どのような理由であれ、翌年のイースターまでは、市内でいかなるオーストリア産ワインも飲んではならないことが、国王によって定められている。オーストリアのワインが、国内産よりも人気があった為とみられる。

 14世紀前半のプラハ市の関税記録によると、オーストリア産にかけられた関税は、国内産の2倍(30グロシュ)、さらに遠いシチリア産のワインは4倍(60グロシュ)であった。

参考文献

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樽の上に置かれたワイングラス(ズノイモ市ワイン祭り)のフリー素材 https://www.pakutaso.com/20191115316post-24110.html