戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

ライプツィヒ Leipzig

 ドイツ東部、ザクセン地方の中心的な商業都市。中世以来、大市が開催され、フランクフルトとともにドイツの代表的な大市開催都市として知られた。また周辺地域の鉱業と毛織物業を軸にヨーロッパ各地との交易で繁栄した。

都市のはじまり

 11世紀、ドイツ人が築いたブルク(城塞)として記録に見える“urbs Libzi”が、ライプツィヒの史料上の初見とされる。その後、いわゆる「商業の復活」やドイツの東方植民が進み、遠隔地商業に従事する人々の往来が活発になる。これに伴い、ライプツィヒを経由する街道での人や物の行き来が盛んとなったと推測されている。

 1168年(仁安三年)、エルツ山脈のフライベルクで銀鉱山が開かれており、ライプツィヒの発展に向けて大きな契機となった。同じ頃、マイセン辺境伯オットー(在位1156〜1190年)の治世下でライプツィヒには都市法が与えられ、同市を中心とした禁制圏も設定され、市場都市として発展していくための土台も築かれていた。

 ライプツィヒはマイセン領内で、周辺地域の農産物の供給を受ける商品集散地として位置づけられていた。1216年(建保四年)の文書や1359年(延文四年)のライプツィヒ都市台帳の中で、ライプツィヒ周辺の村落の住民が、街道や橋の管理と引き換えに、同市での非課税特権を与えらている。ライプツィヒ市内への商品搬入を容易にするための配慮とみられる。

 また悪質な債務者から商人を保護するための規定も設けられており、取引の円滑化に大きな意味を持っていたと考えられている。

外来商人の保護

 1268年(文永五年)、辺境伯ディートリッヒにより、ライプツィヒを訪れる外来商人に護送特権が与えられ、商人と商品双方の安全が保障されることになった。このような取り決めから、ライプツィヒが既に広域的な商業都市としての性格を有していたことがうかがえる。

 ライプツィヒでは後年、春の復活祭の市と秋のミカエル祭の市の二つが行われていたことが知られる。1268年のディートリッヒの布告は、復活祭間近の3月1日に出されており、この年すでに復活祭の市が存在したことを推測させる。

新年大市をめぐる争い

 1458年(長禄二年)、ザクセン選帝侯は、ライプツィヒに以前から設けられていた二つの大市に加えて、第三の大市すなわち新年の大市を開催する特権を付与。併せて大市を訪れる全ての商人に、無料で護衛を提供する旨を申し出た。

 しかし当時すでに、ライプツィヒの西北に位置する都市ハレにおいて新年の大市が開催されていた。同市は神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世に訴え、1464年(寛正五年)に新年大市の正当性を皇帝から認められ、ライプツィヒのそれを上回る権威を得ることになった。

 これに対し、ザクセン選帝侯の代理人が伺いを立てたところ、1466年(文正元年)、皇帝はライプツィヒにも新年市の開催権を与えてしまった。以後、ハレとライプツィヒの両者が皇帝に訴え、その都度に決定が二転三転する事態となる。

 結局、ブランデンブルク辺境伯主導の仲裁裁判により、1470年(文明二年)に妥協が成立。かくして両都市とも一月に新年市の開催が認められ、ライプツィヒ、ハレの順に連続して大市が開かれることに決まった*1

大市開催特権の確立

 ハレとの争いが一区切りした後、今度はマクデブルクと大市の開催権をめぐる争いが起きる。ライプツィヒ当局は、皇帝マクシミリアン1世との交渉のため、遠くオーストリアインスブルックまで参事会員を派遣。その結果、1497年(明応六年)に皇帝からライプツィヒに対して改めて大市開催に関する特権が与えられた。

 この特権の中で、復活祭の市、ミカエル祭の市、新年の市という三つの大市の開催期が、初めて明記されることになった。さらに、マクデブルク司教区、ハルバーシュタット、マイセン、メルセブルクおよびナウムブルクにおける新たな年市の開催を、高額の罰金を設けて禁じる旨を定めており、ライプツィヒにとって極めて重要な内容を含んでいた。

 1507年(永正四年)には、半径15マイル(約112キロメートル)以内での他の大市開催を禁じる規定が盛り込まれた皇帝の特許状が、ライプツィヒに与えられた*2。さらにこの範囲内での商品集散権(シュターペル)が、ライプツィヒに認められることになった。

 1507年の特許状の内容は、さらに教皇レオ10世の教皇令として1512年(永正九年)12月に発令され、ライプツィヒの聖トマス教会の扉に掲示された。このように、ライプツィヒの大市は皇帝のみならず教皇からも特権的な位置が認められることになり、フランクフルトの大市と並ぶ帝国最大の大市として発展していくための法的な基盤を整えることができた。

ザクセンの鉱山開発と金融市場

 1168年(仁安三年)、エルツ山脈で銀の鉱脈が発見され、鉱山都市フライベルクが成立。銀の流通は、ライプツィヒの商業にも刺激を与えることになる。さらに15世紀末から16世紀初頭にかけて、エルツ山脈のシュネーベルク、アンナベルク、マリーエンベルクなどの鉱山開発が進み、加えて北西部のマンスフェルトでも銅の採掘が強化されていた。

 ザクセンはドイツにおける一大鉱業地域となり、ライプツィヒは鉱産物の取引の拡大により商品市場としての重要性が増加。さらに採掘や加工を行う会社にとっての資金調達ないし鉱山の持ち分取引の場ともなり、金融市場としての側面も色濃く見せていく。

 取引において信用供与がなされた場合、その支払期限はライプツィヒの三つの大市、それにナウムブルク大市の計四つの大市開催期に設定されることが多かった。ゆえに、これらの大市はまた、ザクセンの諸君主が資金の借入、清算を行う場ともなっていったという。

移民の増加

 ライプツィヒは、既に13・14世紀から主にマイセンなど近隣地域からの移住商人を受け入れてきた。これに対して、15・16世紀になると経済的先進地域である高地ドイツ(ドイツの中部・南部)を中心に、ドイツ各地からライプツィヒに進出してくる商人が増え、低地地方(現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランス北部など)、イングランドからの商人も、少数ではあるが、記録されるようになる。

 高地ドイツ出身者の中ではニュルンベルク商人が多かった。1471年(文明三年)から1550年(天文十九年)にかけて、ライプツィヒに移住してきた商人の中で出身地が分かる者は165人。そのうち高地ドイツ出身者は約半数の79人で、うち36人がニュルンベルク出身者だった。

 移民増大の理由の一つには、先述の鉱山開発がライプツィヒでの取引・投資機会を生み出したことが挙げられている。また、1420年(応永二十七年)頃から、ライプツィヒニュルンベルクの対ポーランド商業の拠点として位置づけられるようになり、ヨーロッパ東西貿易の拠点となったことも理由の一つとみられている。

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通商路の変化

 15世紀以降、ドイツ・ハンザが衰退していくに従い、これまでバルト海、北海沿岸のハンザ都市を経由していた東西ヨーロッパ間の通商の動脈は、ライプツィヒを経由する内陸路に移動していく。

 例えば、ヴロツワフクラクフ等の商業都市は、海域ハンザとの関係を弱めていく中で、内陸部ライプツィヒとの結び付きを強めていった。それは、やがて東西ヨーロッパをクラクフ、ヴレスワフ、ライプツィヒ、ケルン等で結ぶ内陸部での大動脈形成に繋がっていくと考えられている。

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 また東ヨーロッパの動脈は、かつてはリヴィウ(ルブフ、レンブルク)を経由する東から西に向けてのルートだったが、オスマン朝の進出などにより、北イタリアのヴェネツィアからニュルンベルクライプツィヒ、ヴレスワフを経由する南から東に向けてのルートへと変化したとする指摘もある。

手工業の発達

 ライプツィヒ周辺地域では、16世紀後半から毛織物の生産が盛んに行われるようになる。この毛織物工業発達に大きく貢献した人物が、低地地方・アラス出身の商人ハインリヒ・クラマー・フォン・クラウスブルッフだった。

 ライプツィヒに移住したクラウスブルッフは、アントウェルペン(アントワープ)方面との繋がりを生かして広汎な商取引を展開しただけでなく、鉱山、そして毛織物工業にも積極的な投資を行い、ライプツィヒ周辺地域における繊維業確立に大きな役割をはたす。彼はアラスやアントウェルペンから親方や職人を集め、ライプツィヒ南部モイセルヴィッツの作業場で輸出向け毛織物の製造に着手し、その生産を拡大させていく。

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 やがて他の商人も毛織物生産に進出するようになり、16世紀後半には、西はエルフルトから東はオーバーラウジッツにまで広がるザクセンの手工業地域が形成されてくる。ザクセンの手工業発達は、ライプツィヒの商業に刺激を与え、ライプツィヒおよびその周辺部での人口増大、購買力の増強にも繋がっていった。

大市取引の概要

 ライプツィヒでは、三つの大市、すなわち春(復活祭)の大市と秋(ミカエル祭)の大市、それに新年の大市ともに、開催期間は8日と定められていた。ただし大市での取引規模の増大により、16世紀以降、復活祭の市とミカエル祭の市の開催期間は3週間へと拡大されている。

 商人たちが設営する店舗は、織物商館内の大店舗とマルクト(市場)の小店舗とがあったが、大市の期間、店舗は街道や小道にまで溢れ、市中は取引一色であったという。また16世紀になると、多くの外国商人の来訪がみられる。ザクセン外のドイツ人に加えて、イタリア、低地地方、イギリスからの商人が目立つようになり、東欧からはポーランドユダヤ人が多くここを訪れるようになった。

 ライプツィヒ市内に搬入された商品は、全て計量所に持ち込まれ、品目や大きさ、重さに従って課税されるよう定められていた。16世紀における大市開催期間中の計量税収入は、各年度の収入総額のおよそ7〜9割に達しており、ライプツィヒにおける商取引がいかに大市に集中していたか、知ることができる。

 また、大市の取引規模自体も拡大傾向にあった。換算通貨の変化や貨幣価値の変動があるため正確ではないが、1472年(文明四年)に684ショック・グロッシェンであった計量税収入額は、1600年(慶長五年)には9188ターラーにまで増加している。

ライプツィヒで取引された商品

 15・16世紀、ライプツィヒで取引された商品としては、東欧から西欧方面に向けては毛皮、皮、蜜蝋があった。さらにライプツィヒと低地地方との間では、銅、銀、錫などの金属と毛織物の取引が軸であったという。

 外国商人によってライプツィヒに搬入された商品には、様々な食糧品、繊維製品、薬品等があった。食糧としては、魚類*3、米、無花果のほか、嗜好品として油、蜂蜜、砂糖、アーモンド、干し葡萄が、また香辛料としては胡椒、丁子、サフランナツメグ、肉桂、キャラウェイ、各種の生姜類などがあった。ワインも南方産とドイツ産取り混ぜて様々なワイン*4が記録されている。

 繊維製品としては、亜麻布、バルヘント織り、毛織物(生地と織物)があった。亜麻布はアウグスブルクやシュヴァーベン、バルヘント織りではアウグスブルクやミラノの地名がみられる。毛織物では、生地は低地地方のアラス、ブリュージュ、ライデン、メルヘン、フランスのクレルモン、織物はアーヘン、フランクフルト、ブラバント、さらにイングランド、ロンドンといった地名が挙げられている。

 他にもロシア、東欧からは、蜜蝋や皮、毛皮類などの商品があった。これらはヴレスワフ、クラクフポズナニ、フランクフルト(アム・オーデル)、ベルリン、マクデブルクから輸送されてきたほか、ダンツィヒ、シュチェチン(シュテティン)、リューベックといった港湾都市からも送られてきた。

 ライプツィヒに商品をもたらした外来商人の中では、ニュルンベルク商人の役割が極めて大きかった。南方産ワイン、香辛料、絹といった主にイタリア方面から送られてくる商品は、大抵ニュルンベルクを経由してライプツィヒに達していた。なお香辛料については、16世紀以降、アントウェルペンに陸揚げされた香辛料もライプツィヒにもたらされていたと推測されている*5

取引商品の変化

 ライプツィヒの商業発展は、鉱業と毛織物工業の発展と深く結びついていた。しかし、16世紀前半から17世紀初頭にかけてのライプツィヒ大市では、金属と毛織物という二大商品群のうち、取引の中心が前者から後者へと変化したことが指摘されている。

 その理由として、南アメリカ産の銀がヨーロッパ市場に流入したことにより、中欧の銀鉱山が打撃を受け、このため金属取引におけるライプツィヒの重要性が低下してしまったことが挙げられている。一方で、ライプツィヒの商業は、周辺地域における毛織物中心の手工業の発展により、繊維製品の取引を軸に拡大し続けた。

 その繁栄は、17世紀前半に勃発する三十年戦争の間際までは維持されていく。

関連交易品

参考文献

ライプツィヒ Thomas WolterによるPixabayからの画像

ライプツィヒの旧市庁舎 lappingによるPixabayからの画像

ライプツィヒの聖トマス教会 lappingによるPixabayからの画像

聖トマス教会の彫刻 scholacantorumによるPixabayからの画像

*1:しかし、このような決定にもかかわらず、ハレはライプツィヒの商業的優位に太刀打ちできず、やがて開催期を移動せざるを得なかったという。

*2:1505年、禁制圏外にあった都市エアフルトに対し、皇帝マクシミリアンが年市の開催を認めた。これに対し、ザクセン公オルグが特権の遵守と拡大を皇帝に働きかけたことによる。マイセン・ザクセンの諸君主は、財政的にライプツィヒの経済的発展に依存する部分が多く、ライプツィヒ大市の利害を尊重する方向で緩やかな支配を行ってきた。また血縁関係や資金の融通を通じて、皇帝を輩出するハプスブルク家とヴェッティン家(ザクセン公家)とが強く結ばれていた。

*3:魚は乾燥、燻製、あるいは塩漬けにされた海産魚が最も重要であり、バルト海、北海産の鰊(ニシン)やベルゲン産の棒鱈などがリューベックやシュチェチン(シュテティン)などの港湾都市から送られてきた。

*4:南方産ワインは、フランケン(ドイツ中南部)産ワインやライン・ワインといったドイツ産ワインより高く評価されていた。

*5:香辛料が、低地地方との関係の深い商人と取引されることもあったことによる。取引は、対西欧取引の中核をなす金属や毛織物と合わせて行われている。