戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

鰊(バルト海) にしん

 鰊は冷水域を好む回遊魚。ヨーロッパではバルト海や北海で捕獲され、加工された後、ヨーロッパ各地に流通した。栄養源が限られていた中世から近世にかけてのヨーロッパにおいて、防腐処理を施した魚は貴重なタンパク源であった。

ヴァイキングと鰊

 スカンディナヴィア半島の遺跡からは、紀元前3000年の鰊の骨が発掘されており、人々は古くから鰊を食していた。ヴァイキングが活躍した時代、鰊はさらに食べられるようになっていた。ドイツとデンマークの国境に位置するヘーゼビューにあるヴァイキングの定住地跡や交易所跡の発掘により、そこで食べられていた魚介類の大半が鰊だったことが分かっている。

 コペンハーゲンの西にあるロスキレ・フィヨルドでは、5隻のヴァイキング船の遺物が海から引き上げられ、彼らが紀元8世紀に鰊を食べていた証拠が見つかった。鰊の骨は、このフィヨルドで発見された8〜9世紀の人工遺物の18パーセントを占めている。この割合は、10〜11世紀になると42パーセントにもなる。鰊が豊富に獲れていたこと、ヴァイキングにとって重要性が増していたことがうかがえる。

 ヴァイキングイングランド東岸やスコットランドオークニー諸島まで出向いて鰊を獲った。オークニー諸島のウェストレー島で、9世紀のニシンの骨が見つかっていることから、ヴァイキングがここで鰊を獲って塩漬けにし、交易の品にしたり、母国に持ち帰ったりしたと考えられている。

スコーネ地方

 中世の鰊の主要な漁場は、スカンディナヴィア半島南端、エーアソン海峡の南側のスコーネ沿岸地域であり、夏から秋にかけてデンマーク*1の漁師によって捕獲された。

 捕獲された鰊は、ハンザ商人などに雇われた地元の婦女により、長期の輸送と保存に耐えるよう、はらわた*2の除去、塩漬けといった防腐処理を施され、樽詰めにされた。これらの作業は、ハンザをはじめとする諸商人に貸与された「フィッテ」と呼ばれる租借地で実施された。リューベックダンツィヒハンブルクなどのハンザ都市が保有していたフィッテは、15ほどであったという。

 塩漬けされた鰊は、フィッテでも売買されたが、主な販売地となったのは、スカノールやファルステルボーといった地区で開催されたスコーネの大市であった。当初、スコーネの大市は、フランドルやイングランド、スカンディナヴィア半島から商人が集う国際的な東西間の取引の場であり、扱われた商品も鰊だけでなく織物や、木材、毛皮、蜜蝋、鉄などに及んでいた。しかし、リューベックを中心としたハンザ商人の勢力拡大を背景として、スコーネ市場から外国商人が排除されていき、扱う商品も鰊へと特化していくようになった。

鰊の輸出量

 1494年(明応三年)、デンマーク側代官の記録によれば、この年ここで3943ラスト(樽数にして4万7323樽)の鰊が,合計202名のハンザ商人により購入されたという。

 内訳は、55名のリューベック商人が1284ラスト、22名のダンツィヒ商人が878ラスト、36名のシュテティン商人が811ラスト、21名のシュトラールズント商人が524ラストの樽をそれぞれ購入している。これらの鰊は各商人の出身都市への輸出され、市内で消費される分を除いて再度輸出されたとみられる。

 なお、ヨーロッパの鰊取引では、伝統的にロストックの鰊樽が基準とされた。その容量は119〜120リットル、数にして830〜840匹ほどの鰊を詰めることができたという。ラストは大体12樽と換算されるので、前述の1494年にリューベック商人が扱った1284ラストのスコーネ産鰊は、樽数に換算して1万5408樽、鰊の数は1290万匹前後ということになる。

 鰊の輸入の対価として、リューベックからは、同市南部のリューネブルク産の塩が輸出された。鰊の樽詰め、保存に不可欠な塩の流通を手にすることにより、リューベック商人はスコーネ地方の鰊取引において優位な立場を占めることができたといわれる。

漁場の変化

 ただ、1494年のスコーネ産鰊の記録には、リューベックと並ぶハンザ都市であるハンブルクの商人が含まれていない。この背景には鰊の漁場の変化がある。15世紀頃から鰊の漁場は、スコーネ地方から西の北海側へと移動し始めており、スコーネ近海における漁獲量は減りつつあった。一方で、オランダにおける鰊漁が発展しており、北海沿岸やライン川流域のハンザ都市では、これらオランダや北海産鰊の輸入が増加していた。

 ハンザ盛期の1368年(応安元年)、鰊はハンブルクバルト海側のリューベックから輸入する主要商品の一つだった。また、スコーネ地方から直接輸入する鰊も相当量あったと推定される。

 これに対し、15世紀中頃から16世紀初頭にかけて、鰊はハンブルクからリューベックに向けて流通するようになり、流れが逆転した。この頃には、ハンブルクを発してライプツィヒなどドイツ内陸部に向けて流通する鰊も、北海やオランダ産へと変化していったとみられる。

品質検査

 樽詰めされた鰊は、品質検査官(Wracker)により品質が検査された。検査済みの鰊樽には、その証拠となる焼印が押されたが、中でもスコーネ地方で秋に捕獲され、卵を孕んだ子持ち鰊で、なおかつ基準以上の大きさに達したものは最高級品とされた。そのような鰊を詰めた樽には、「二重サークル(der doppelte Zirkel)」と呼ばれる特別の焼印が施された。

 ハンザ都市の中でもリューベックの品質検査は特に定評があった。ここで二重サークルの印を得ることができた鰊は、ヨーロッパのたいていの市場で問題なく受け入れられたという。

 スコーネ産の鰊は、バルト海、北海沿岸をはじめ、アルプス以北のヨーロッパのほぼ全域で流通していたと考えられ、さらにアルプスを超えてミラノ、イタリア方面にまで流通することもあった。鰊の流通に際しては、場合により途中の通過地点で樽の中身について再度検査が実施されることがあった。これは品質保証の一助となっただけでなく、劣化した鰊が見つかった場合、焼印から輸送経路を確定し、劣化の理由を探ることも可能にしたとされる。

ドイツ内陸部への流通経路

 ドイツ内陸部のライプツィヒ方面への流通の窓口となった主要港湾都市には、東からダンツィヒグダニスク)、シュテティン、リューベックハンブルクを挙げることができる。鰊樽は重量商品であったが、水路も交えて陸上路での長距離輸送が行われていた。

 このうちダンツィヒ中欧、南東欧に向けた鰊の発送地として位置付けられていた。ダンツィヒに荷揚げされた鰊は、ヴァイクセル川をさかのぼってトルンまで水路で運ばれた。ここから一部はブレスラウ(ヴロツワフ)に向かった。このほか、トルンから西寄りのルートをたどり、ポーゼン(ポズナニ)やクーベンを経由し、シュテティン方面から南下してきた鰊と合流してライプツィヒに到達するルートもあった。

 シュテティンからライプツィヒ方面に輸送される鰊も、途中まで水路が利用された。すなわち、シュテティンからオーデル川を遡上して、まずはフランクフルト・アン・デア・オーデルへ達した*3。なお同市は、1307年(徳治元年)以来、鰊シュターペル(販売強制)を設定し、1518年(永正十五年)にその更新を図っている。ドイツ内陸部に向けた鰊の分配拠点のような役割を、果たしていたものと考えられている。

 フランクフルト・アン・デア・オーデンからはベルリンに達し、ベルリンからはドミッチュやヴィッテンベルクを経由して南下するルートに接続することができた。ベルリンは、ドイツ内陸部に向けた海産物の一大流通拠点であったとされる。例えばライプツィヒ北東およそ20kmのアイレンブルクでは、1524年から25年にかけてベルリン発の荷車が263台記録されたが、そのほとんどの積荷は魚類であり、122台が鰊を、また109台が鰊、鰻(ウナギ)、鱒(マス)などを積んでいた。

 リューベックからは、イルメナウ川を遡上してリューネブルクに達した。ハンブルクからの海産物もリューネブルクに向かうことが多かったが、重量商品である鰊樽*4は、エルベ川をそのまま遡り、水路でマクデブルクまで運ばれ、そこから陸路を利用する場合も多かった。なお、リューネブルクから先は、ブラウンシュバイクやマクデブルク、エアフルト等を経由してライプツィヒに運ばれた。

 ライプツィヒには、禁制圏の設定が認められていた*5。その圏内を通過しようとする鰊などの海産物は、原則同市内で一度販売に付されたものと考えられる。スコーネ産の鰊は、ライプツィヒよりもさらに大陸の奥に向けて流通し、ボヘミアモラヴィアへも輸出された。またレーゲンスブルクニュルンベルクといった南ドイツにも送られている。

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ライプツィヒでの鰊

 ドイツ中部最大の商業都市ライプツィヒにおいて、海産物(魚)は庶民にとっても手の届く栄養価の高い食材だった。とりわけ重要だった海産物は、干し鱈(棒鱈)と塩漬け鰊であり、ほかにも鱒の仲間、ヤツメウナギ、シュプロッテ(鰊の一種)などが、計量表から確認される。淡水魚であれば地元の露天商が販売したが、海産魚を扱ったのは外来商人や地元の雑貨、小間物商*6であった。

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 ライプツィヒでは、市参事会が魚の取引の厳格な管理を行なっており、新着の鰊は市内で優先的に販売され、傷んだ魚は早急に廃棄されることなどが求められた。また大市が開催されていない時期は、外来商人による魚の小売や外来商人同士の小口(0.5ラスト以下)での鰊の売買は認められていなかった。

 同市には、海産物取引に従事した商人も数多く存在した。その中でも有力であったフォルクマー家は、1493年(明応二年)にニコラウスがライプツィヒ市民となってから、魚や魚油などを扱う商人一族として知られるようになった。ニコラウスの息子も父の事業を引き継ぎ、魚商として活躍。ライプツィヒ以外の都市にも倉庫を構えるまでに事業を拡大し、16世紀前半のライプツィヒで最も豊かな商人の一人となった。

ライプツィヒ周辺での鰊の流通量

 ライプツィヒの北東およそ20kmあたりには、ザクセンの交通の要衝でもあった都市アイレンブルクがある。1524年(大永四年)5月1日から1525年(大永五年)4月30日までの1年間で、アイレンブルクに運び込まれた鰊は、樽数で2315樽*7であり、荷車の台数と馬の数は393台1021頭であった。平均すれば、荷車1台で運ばれた樽の数は5〜6樽、馬2〜3頭で1台の荷車を牽引していたことになる。

 ライプツィヒ南西のエアフルトには、1525年(大永五年)11月5日から1526年(大永六年)12月31日までの期間に、鰊3769樽、燻製鰊0.5ストロー(おそらく麦わら Strohで束ねたもの)が運び込まれている。この鰊の量は、他の海産物*8と比較してひときわ多い。またエアフルトに運ばれた鰊は、リューベックハンブルク方面から運び出されたものと推測されている。

関連交易品

参考文献

  • 谷澤毅 「中世後期・近世初頭ドイツの南北間商業ーライプツィヒとその周辺地域のハンザ地域との取引ー」(『商業論纂』第61巻第5・6号 2020)
  • キャシー・ハント(訳 龍和子) 『「食」の図書館 ニシンの歴史』 原書房 2018

ニシンの燻製 dpexcelによるPixabayからの画像

ニシン Hilde StockmannによるPixabayからの画像

*1:スカンディナヴィア半島南端のスコーネ地方は、当時デンマーク領だった。

*2:鰊のはらわたは、魚油の原料となったが、悪臭を避けるためにフィッテから離れた場所に、そのための作業場が設けられた。

*3:フランクフルト・アン・デア・オーデルへは、ケーニヒスベルクを経由するオーデル川右岸の内陸路が利用されることもあった。

*4:ハンブルク発の鰊は、オランダから輸入された北海産鰊であったと推定されている。

*5:1497年以降は半径15ドイツ・マイル=112キロメートルの範囲。

*6:ライプツィヒでは、魚は各種香辛料や雑貨、絹や亜麻などの繊維製品、ワインなどの飲料とともに雑貨・小間物として扱われ、この雑貨・小間物という総称は1500年頃まで用いられたという。

*7:アイレンブルクには、北のドミッチュ、トルガウ、ヴィッテンベルクを経由して運ばれている。ただ、同じ期間に北方からヴィッテンベルクに運ばれた鰊は261樽であったが、これはヴィッテンベルクからアイレンブルクに運ばれた鰊の量(190樽)よりも少ない。ヴィッテンべルクからアイレンブルクを経由せず、直接ライプツィヒ方面に向かった鰊などの魚類も存在した可能性があるという。

*8:同期間における鰊以外の海産物は、干し鱈358.5包、ヒラメ・カレイの仲間231包+125ショック、カワマスの仲間233.5樽+40容器、サケ・マスの仲間314.5樽+36包、ヤツメウナギの仲間8ショック、ハゼの仲間48.5樽、プライフィッシュ1樽、鰻91.5樽+3.5ツェントナー、プルスマン71.5樽+0.5ツェントナー、「魚」564包となる