戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

ライン ワイン Rhein wein

 ドイツのライン川流域で生産されたワイン。ドイツ北部沿岸地域や中部ドイツ都市では、ラインワインが最も一般的なワインであった。なお現フランス領のアルザス地域で生産されるワインはアルザスワインとして区別されたが、地域によってはラインワインとして扱われていたという。

ライン川流域のワイン

 オーバーアルザスからミッテルライン北部にかけてのライン川流域及びマイン、ナーエ、モーゼル、アールの各支流流域に広がる葡萄栽培地域*1で生産されたワインは、いわゆるラインワイン、アルザスワインとして扱われた。

 その大部分はケルンを最大の集散地としており、同都市にはライン川上流方面からラインとアルザス双方のワインが搬入されていた。なお中世のケルンでラインワインの生産地として認識されていたのは、ミッテルライン、モーゼル、ナーエ、ベルクシュトラッセ、マインの各ワイン生産地であったという。

 ラインワインとアルザスワインの生産地域とは、はっきりと区別されていた。しかしライン川下流のニーダーラインや低地地方では両者の区別はなされず、双方ともにラインワインとして扱われていたという。このため、ラインワインの中心的な流通地域でラインワインとアルザスワインとを区別して見ていくことは難しいとされる。

ワイン集散地ケルン

 ケルンはラインおよびアルザスのワインの集散地であった。同都市へのワインの搬入量は、1415年(応永二十二年)は30800フーダー、1420年(応永二十七年)には27650フーダーであったとされる。なお、ケルンにおいてもラインワインとアルザスワインの区別はされていなかった。

 毎年秋になると新酒を積んだ多くの船がケルンに入港し、その数は、14世紀中頃第四四半期では平均すると年約370隻、1391年(明徳二年)には800隻におよんだ。ワインはケルンまでライン川中流を航行するオーバーレンダー船で運ばれた。さらに低地地方などライン川下流方面へ再輸出されるときは低地向けのニーダーレンダー船で運ばれた。

 ケルンのワイン商人は、生産地に大抵仲介・代理人*2を置いていた。彼らを通じていち早くその年の収穫量、葡萄の質に関する情報を入手し、必要な場合には、初物の仕入れに参加させたり仮契約を締結させたりした。このように確実な情報を素早く入手し、いち早く市況に適応することが出来たことがケルンのワイン商人の躍進に繋がったという。また12世紀を境として、ケルン商人はフランドルやブラバントにもワインを供給するようになったとされる。

 ラインワインはライン川上流方面にも流通し、14世紀末のニュルンベルク、1420年(応永二十七年)のアウグスブルクなどで記録が残る。しかし圧倒的部分はライン川を下り、ケルンを主要な集散地としてドイツ中部、北部で、そして低地地方の商業都市を経てハンザ商業圏の中で広く流通していたと考えられている。15世紀になると、ケルンは「ハンザのワイン貯蔵庫」として、ハンザ商業圏に向けたワインの一大供給地となる。

ワインの販売市場

 低地地方では、この地域の国際商業の中心都市ブリュージュのみならず、ブリュッセル、ルーヴァンもケルンのワイン商人の重要な販売市場だった。さらに、カンペン、ドルトレヒト等の低地地方東部の港湾都市は、ケルン商人の扱うワインの船積み港として重要であり、ラインワインはこれらの港からイングランドバルト海沿岸各地に送り出されていった。

 北海方面では、ケルン商人はイングランドで既に1175年(安元元年)頃にフランス人と同じ条件でワインを販売する権利を国王特権により認められていた。しかし15世紀までには、フランス産のワインがドイツワインに代わって飲まれるようになっていった*3

 北海東部では、ハンブルクがケルン商人にとっての重要なワイン販売市場であった。ハンブルクはまた、バルト海沿岸の港湾都市リューベックに向けての発送の拠点でもあり*4、それゆえ中世後期では、バルト海、スカンディナヴィアの各地へもたらされたラインワインの多くは、リューベックから再度船積みされて送り出されたものだった。

バルト海におけるラインワイン

 バルト海地域でも、ニーダーラインや低地地方と同様に、ラインワインとアルザスワインを合わせてラインワインとされていた。1380年(康暦二年)以前のハンザ都市で扱われていた無銘柄のワインは、全てラインワインだったと考えられている。

 15世紀末のリューベックの関税台帳を見ると、リューベックからバルト海各地へ向けての無銘柄のワイン(すなわちラインワイン)の流れを確認することが出来る。なかでもダンツィヒ、リガ、レヴァル、ストックホルムなど拠点性の強い港湾都市に向けては、1492年(明応元年)から1496年(明応五年)にかけて南方産(ギリシャ産や北イタリア産)、西方産*5ワインと共に無銘柄のワイン(ラインワイン)が毎年のようにリューベックから輸出されていた。

 ワインの流れは輸入側からも確認できる。14世紀中頃から1472年(文明四年)にかけてのリガの都市参事会が調達したワインのリストには、一貫してラインワインが記録されている*6。1432年(永享四年)から1507年(永正四年)にかけて、レヴァルの都市参事会が調達したワインの中でも、ラインワインは南方産ワインのロマーニャとともに継続的に記録されていた。

 これに対し、フランケンワインなど高地ドイツ産のワインは、リガやレヴァルでは見られなかったという。

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参考文献

  • 谷澤毅 「中世後期ドイツにおけるワインの流通」(『長崎県立大学論集 第34巻第4号』 2001)

ブドウ畑とライン川リューデスハイム) from 写真AC

*1:ライン川流域の葡萄栽培は、一時、アイフェル、ユリッヒ、アーヘン等の諸地域まで拡大していた。

*2:多くは樽職人、輸送業者、宿屋または血縁関係者。

*3:大陸側のガスコーニュアキテーヌといったワイン生産地域が、かつてイングランド領であったという事情も背景にあったという。

*4:15世紀以降、オランダの船舶がバルト海に進出してくる以前には、一般にハンブルクからリューベックに通じる内陸路がバルト海・北海間の動脈として利用されていた。

*5:フランス、スペイン、ポルトガルといった大西洋沿岸地域から輸入されたワイン。

*6:この記録での南方産ワインの登場は、ロマーニャが1422年(応永二十九年)、マルヴァジアが1431年(永享三年)以降であり、ラインワインよりも遅れている。