下野国那須郡から常陸国を貫流して太平洋に注ぐ那珂川の河口部に位置する港町。水戸などの同河川流域と海路を結ぶターミナルとして栄えた。
常州の「湊」
現在の水戸市・六地蔵寺所蔵の聖教奥書には「文和二年(1353)十一月廿六日」に「常州吉田郡那珂湊」で書写が完了し、「文和五年卯月二日」にも「那珂湊柏原普観寺」で書写されたことが記されている。
那珂湊は常陸国を代表する「湊」として成立していた。また以前から、那珂川流域の物質積出港として水運の拠点となっていたと推定される。
三陸沿岸と関東を結ぶ
また陸奥国宮古(閉伊)の長根寺にも文和五年の大般若経があるが、その奥書には「執筆 常州吉田郡那珂湊天神別当坊住」という箇所がある。
三陸沿岸と那珂湊の連絡は、海路を介していたとみられる。那珂湊が、関東と東北とを結ぶ港町であった可能性も考えられる。
戦国期の那珂湊
室町・戦国期においても、那珂湊は「湊」として機能していた。小松寺の文安二年(1445)八月の印信には「湊華蔵院道場」がみえる。華蔵院は、那珂湊の真言宗寺院でる。
『堯雅僧正関東御下向四度之記』によれば、京都・醍醐寺の僧正・堯雅は4回の東国下向のうち、天文十九年(1550)六月と元亀三年(1572)七月に「湊花蔵院」を訪れている。
天正十八年(1590)十二月、佐竹氏は水戸城主・江戸氏を降伏させて那珂湊を支配下に置いた。佐竹氏は、ここに蔵入地とともに「湊御殿」とよばれる別館を設けている。那珂湊はこの佐竹氏の直轄支配のもとで、近世都市としてさらなる発展を遂げていくことになる。
参考文献
- 市村高男 「中世後期の津・湊と地域社会」 (中世都市研究会 編 『津・泊・宿 中世都市研究3』 新人物往来社 1996)