乗員33人の大型船。戦国期、北条氏が運用していることが確認される。
33人乗りの船
永禄元年(1558)十一月、北条氏の奉行人・大草康盛は、長浜*1の在郷被官・大川らに対し、「熊野新造」の乗員を十一月四日に伊東に集め、清水(現熱海市)から網代(現熱海市)までの諸材木の輸送に従事させることを命じている(「大川文書」)。
指示された乗員は、合計33人。伊豆西岸の浦々*2に割り当てられた。乗員の数から、「熊野新造」は、かなりの大船であったと思われる。
北条氏と伊勢・紀伊
「熊野新造」はその名から、北条氏が紀伊国熊野に発注して造られた船と考えられる。戦国期、北条氏は伊勢国や紀伊国と海上交易を行っていた。それでだけでなく、軍事的に必要とする船舶も発注し、買い付けていたことがうかがえる。
天正八年(1580)、梶原備前守は、「大船一艘」を仕立てた功績により、北条氏から三浦郡栗浜(久里浜)150貫文の地を宛行われている(「梶原文書」)。梶原備前守は、北条氏により紀伊国から招聘された水軍の将であった。北条領国には、紀伊国から造船技術がもたらされていた可能性もある。