戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

秋田湊 あきた みなと

 秋田平野横手盆地など北羽最大の穀倉地帯を流域とする雄物川河口部に位置した港町。後背地の物資積出と湊安東氏の勢力を背景にして蝦夷地や畿内方面を結ぶ日本海海運の要港として栄えた。

出羽国経営の拠点

 8~9世紀には、朝廷の出羽国経営の拠点・秋田城が同地付近に置かれている。古代から要衝の地を占めていた。

発掘調査からみる秋田湊

 発掘調査によれば、雄物川河口部・後城地区の遺構からは、13~16世紀末の遺物(青磁白磁・染付け・珠洲焼・瀬戸美濃系陶器など)が出土しており、15~16世紀末にピークを迎えることが判明している。

 また雄物川上流の鵜沼城でも、16世紀の青磁、染付け、瀬戸美濃系陶器が出土している。秋田湊に入った物資が、河川水運を経由して上流地域にまで流通していたことが窺える。

蝦夷地との交易拠点

 この秋田湊に湊城を構え、城下町としたのが湊安東氏(湊氏)であった。先述の遺構のピークは、同氏の全盛期と符合している。この湊氏は「蝦夷沙汰」を担い、蝦夷地に強い影響力を持っていた。

 永禄八年(1565)、宣教師ルイス・フロイスは、蝦夷の風俗等を本国に伝えた書簡の中で、「彼等の中にはゲワ(出羽)の国の大いなる町アキタと称する日本の地に来たり、交易をなす者多し」と述べている。秋田湊の、北方交易における地位を知ることができる。

 また『証如上人日記』によれば、天文年間、湊堯季が当時秋田湊にあった夷浄願寺(本願寺教団の蝦夷地布教の中心)を通じて本願寺蝦夷錦とみられる「錦」を贈っている。蝦夷の産物が、秋田湊を経て畿内にまで運ばれていた様子を窺うことができる。

参考文献