北海道日本海沿岸部にあったアイヌの拠点。現在の北海道久遠郡せたな町の内。和人と西部アイヌの交易の中継地であったと考えられている。
セタナイアイヌの蜂起
享禄二(1529)、アイヌの首長タナサカシがセタナイで蜂起。工藤祐兼を敗死させ上之国に攻め寄せたが、計略により松前で蠣崎氏に誘殺された(『松前旧記』)。
天文五年(1536)六月には、西部の首長タリコナを大将としたアイヌが、熊石(二海郡八雲町)近辺で一揆を起こした。タリコナの妻はタナサカシの娘であったという(『新羅之記録』『東蝦夷夜話』)。タリコナの蜂起は、上之国の蠣崎基広らによって鎮圧された。
交易の中継地
セタナイのアイヌが蜂起した時期は、夷島における蠣崎氏の勢力が強まっていた時期でもあった*1。このため背景には、交易をめぐる両者の対立激化があったともいわれる。
せたな町に所在するセタナイ・チャシ跡からは、16世紀のものと比定される漆器類、朱塗りの盆、朝鮮系を含む大陸系の金属製のキセル、陶磁器では瀬戸焼や越前焼のほか中国産の青花皿が出土している。
元和七年(1621)、イエズス会宣教師ジェロニモ・デ・アンジェリスは、「メナシ」(アイヌ語で「東」の意)のアイヌは河を船で移動してセタナイに商いに行っていると記している(『北方探検記』)。メナシアイヌは船100艘でサケ、ニシンのほか、ラッコ皮を松前に運んでいるとも報告されているので、セタナイにもこれらの物品が持ち込まれていたのかもしれない。
寛文九年(1669)勃発のシャクシャインの戦いの際の史料には、セタナイと内浦湾側の国縫との間は、「瀬田内の川」(後志利別川)と「くんぬい川」(国縫川)で結ばれており、難所もなく二日の行程であり、「蝦夷シヤモ通り筋」になっていたことが記されている(『寛文拾年狄蜂起集書』)。
これらのことから15世紀以来、セタナイは和人とメナシアイヌの交易の中継地であった可能性が指摘されている。
夷狄之商舶往還之法度
天文二十年(1551)、蠣崎氏とアイヌとの間で「夷狄之商舶往還之法度」が結ばれた。この「法度」は、セタナイのアイヌの首長ハシタインを上之国の「天河」の郡内に据え置いて、「西夷の伊」(西部のアイヌの長)とし、知内のアイヌの首長チコモタインを「東夷の伊」(東部のアイヌの長)としたうえで、蠣崎氏が諸国から来航する商人から「年棒」を徴収して、それを「夷役」として両首長に「配分」することを定めている。
その後、夷島の西部から来るアイヌの交易船は、上之国の「天河」の沖で、東部から来るアイヌの交易船は知内の沖で、それぞれ帆を下げて一礼をして通過するようになったとされ、これによって以後、「国内」が「静謐」になったという(『新羅之記録』)。
蠣崎氏は和人とアイヌとの交易の利益を、「夷役」としてセタナイや知内のアイヌに分け与えるという譲歩を行うことによって、アイヌとの緊張関係緩和を図ったとみられる。一方で、アイヌと和人との交易の場は、蠣崎氏の本拠である松前に限定されることになった。