中国東北部(黒竜江下流域、沿海州)から樺太を経由して蝦夷地(北海道)にもたらされた中国製の絹織物の総称。近世の山丹交易(前述地域間の交易)において最も珍重された商品の一つ。
平安期には既に
『中外抄』の康治二年(1143)八月一日の条に琵琶を入れる袋は「えぞいはぬ錦」がよいとある。これが蝦夷錦の史料上の初出といわれ、既に平安後期には知られていたことが分かる。
日本海水運で運ばれる
嘉元四年(1306)九月、越前国で押領された「関東御免津軽船」には、蝦夷地の産物である鮭の他に小袖(絹製品)が積まれており、これは蝦夷錦の可能性が高いとされる。つまり、蝦夷地にもたらされた蝦夷錦は、日本海水運で畿内市場にも運ばれていた。
若狭国内浦字山中に伝わる『商踊り』(成立は室町中期から後期)にも、「夷ガ島では夷殿と商元では何々と 唐の衣や唐糸や」と謡い込まれている。
徳川家康への献上品
文禄二年(1593)、蠣崎慶広は肥前の名護屋城で徳川家康に謁見した際、着用していた「唐衣」を褒められた。慶広はその場で「唐衣」を脱ぎ、家康に献上している。
この記事を載せる『新羅之記録』では、「唐衣」に「サンタンチミプ」という読みが付けられている。アイヌ語でサンタンの着物という意味である。またこの衣について「奥狄唐渡の嶋より持ち来たりしもの」記されている。唐渡の嶋とは樺太(サハリン)のことであるから、これは北方渡りの絹織物つまり「蝦夷錦」であったと考えられる。
蝦夷錦をもたらす人々
蝦夷錦の日本への伝来を担ったのが、アイヌ民族の交易活動であった。近世初期の宣教師の史料である元和四年(1618)のアンジェリス報告、 元和六年(1620)のカルワーリヤ報告では、西方から松前に来航する蝦夷人(アイヌ民族)が、「上質の絹布」を松前氏への礼として持ち込み、それが坊主の衣や十徳になるとされている。