戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

夷浄願寺 えぞ じょうがん じ

 戦国期、秋田湊にあった本願寺系の寺院。元は蝦夷地の松前にあった。蝦夷地や北奥地域への教線拡大を進めた本願寺教団の、最有力中継ぎ本山として同教団の布教の中心を担った。

蝦夷地への布教

 夷浄願寺の系譜によれば、吉崎御坊が建立された文明三年(1471)、蓮如の意向を受けて奥羽に派遣された弘賢により、明応八年(1499)、「夷地松前上国」に「浄願寺」が建立されたという。

 永正十一年(1514)三月、「大谷本願寺親鸞聖人御影」が「夷浄願寺」に下されている。これは本願寺教団が、夷浄願寺を蝦夷・北奥道場のネットワークの核に位置づけていたことの証ともされる。

秋田湊への移転

 夷浄願寺はアイヌの蜂起が深刻化する永正年間に、「秋田土崎湊」に移転する。以後も「夷浄願寺」を称しつつ、三代目了専のときに、桧山浄明寺をはじめ弘前、浪岡、鯵ヶ沢に新寺を建てた。四代了乗のときに、塩越浄専寺、大曲安養寺を、五代了賢のときにも能代、船越、角館をはじめ、湯沢や酒田などにも新寺を次々に起立したという。

 まさに夷浄願寺は蝦夷・北奥地域における本願寺教団布教活動の中核的役割を担っていた。「証如上人日記」に、夷浄願寺が奥羽では数少ない斎相伴衆寺院としてみえることも同寺の重要性を裏付けている。

畿内とのネットワーク

  また天文十五年(1546)七月、秋田の湊堯季が「夷嶋浄願寺」を通じて「錦」を本願寺に贈っている(『証如上人日記』)。本願寺教団は独自の文書伝達ルートを有していたことが知られている。京都扶持衆で「蝦夷沙汰」を担う湊安東氏は、夷浄願寺や同じく西善寺などを通じて京都方面と音信していたことが窺える。

参考文献