戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

銅雀台瓦硯 どうじゃくだいがけん

 蠣崎(松前)氏の家宝として近代まで伝世された硯。3世紀、中国の後漢末の有力者・曹操が建立した銅雀台の瓦と伝えられる。北方のアイヌを経由して15世紀の蠣崎氏の手に渡ったという。

北から来た瓦硯

 近世松前家の家老・松前広長が安永九年(1780)に完成させた『福山秘府』によれば、文明十七年(1485)に「北夷」(蠣崎氏の本拠・上ノ国以北のアイヌ)より瓦の硯がもたらされた。これは「東漢の魏の曹孟徳の築いた所の銅雀台*1の瓦」であったという。この瓦硯の裏面には、曹操が銅雀台を建てた年である「建安十五季」の文字が浮き彫りになっている。

 その由緒の真偽はともかくとして、中国製の硯が北方からもたらされたということは、近世の山丹交易ルートであるアムール川下流域からサハリンを経由して、蝦夷地のソウヤ(宗谷)などに至るルートが、既に存在していたということを示している。

出所はどこか

 一方で、表面に刻まれた文字の中に「洪武辛未重九」という文字が読み取れる。「洪武辛未重九」とは、明朝の洪武帝二十四年(1391)九月九日を意味する。

 15世紀初頭、明朝はアムール川下流域のヌルガンに奴児干都司を設置した。奴児干都司や、その西の丘に建立された永寧寺には、事務や諸記録のために、筆や硯が持ち込まれていたと考えられる。

 その後、奴児干都司は15世紀半ばには廃絶した。その際、硯が置き去りにされ、後に蠣崎氏のもとにもたらされた可能性があるという。アムール川下流域やサハリンの先住民たちに文字を書くという文化は無かったが、瓦硯は威信財としての価値があったのかもしれない。

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参考文献

  • 中村和之「モンゴル時代の東征元帥府と明代の奴児干都司」(菊池俊彦・中村和之 編 『中世の北東アジアとアイヌ―奴児干永寧寺碑文とアイヌの北方世界―』 高志書院 2008)

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宗谷岬 from写真AC

*1:銅雀台は、後漢末の有力者・曹操が.、210年に鄴に築いた宮殿。