出羽北部を流れる米代川(野代川)河口部に位置する港町。戦国期には檜山安東氏の外港として日本海海運の要衝を占めた。
渤海使の来航
その史料上の初見は古く、『続日本紀』には宝亀二年(771)に渤海使・壱万福ら35人が十七隻の船で「出羽国賊地野代湊」に着岸したことがみえる。
弘治二年の町立
しかし『続日本紀』以降、野代はしばらく史料上からみえなくなる。再びみえるのが弘治二年(1556)、清水治郎兵衛政吉が、檜山城主・安藤愛季から知行と「材木方其外町支配」を命じられ、日和見山北麓の姥ヶ懐から引き移って野代の町立を行ったと伝えられる(「能代八幡神社文書」)。
弘治二年以前
この16世紀半ばの移転以前の野代については、不明な点が多い。
米代川水系流域の中世城館の多くが河川水運と密接に結びつく形で立地し、また能登珠洲産の陶器が、米代川下流一帯から広く出土している。これらのことから、野代が北羽と日本海を結びつける機能を担っていたことが推定される。
米代川流域からその北側は、材木などの林産物、馬、鉱山物の産出地であった。野代からは後背地の産物が積出されるとともに、珠洲焼などの生活必需品が荷揚げされたのだろう。
檜山安東氏と日本海海運
野代を外港とした檜山安東氏は、本拠において野代と後背地を結ぶ交通路を押えていた。さらに天文十九年(1550)以前から若狭・小浜に代官を配し、また蝦夷・松前 の蠣崎氏も従えていた。
檜山安東氏は、蝦夷から畿内を結ぶ広域海運に関わっていた。その拠点が同氏の外港である野代であったとも、考えられる。