戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

酒田 さかた

 南羽の広域を流域とする最上川の河口部に位置する港町。中世以来、同地域と日本海との結節点を担う水運の拠点として栄えた。

文芸作品にみえる酒田湊

 室町初期成立とされる『義経記』には、「酒田の湊」と登場する。15世紀成立の幸若舞曲『笈かざし』や『やしま』にも、「さかた」がみえる。『瀬良田』のように、酒田湊と深い関係を有する能も製作されている。室町初期~中期、酒田は全国的に知られる港町だったことがうかがえる。

真宗門徒の活躍

 大永年間(1522~28)、最上川南岸にあった酒田湊(向う酒田)は「長人」三十六人衆によって北岸(当酒田)に移っている。この時期に、近世の酒田湊につながる都市への再編がなされたことがうかがえる。またこの移転に関わった三十六人衆の多くは、真宗門徒であった。

 酒田の一向宗寺院・浄福寺の開基・明順は、文明五年(1473)に蓮如から兄・弘賢とともに奥羽・蝦夷への布教を命じられ、文明七年に酒田に浄福寺を開いて蝦夷へ渡っている。 一向宗の教線拡大は、日本海航路における水運、経済活動と連関して行われた側面がある。これら一向宗門徒の活動が、酒田湊をより日本海海運と結び付けていったとも考えられる。

上杉氏による振興策

 天正十九年(1591)、出羽庄内を領国とした上杉氏は、甘糟景継を酒田城主として酒田町代官を兼務させ、酒田の町を直轄化する。同年、庄内三郡の米が石見・温泉津に送られており、上杉氏も重視した酒田の日本海海運の発展をうかがうことができる。

 上杉氏は文禄三年(1594)、酒田での「舟着」(船役)を半分にしており、入船の誘致による経済振興を図っていることも確認できる。

参考文献

  • 市村高男 「中世出羽の海運と城館」 (伊藤清郎・山口博之 『中世出羽の領主と城館 奥羽史研究叢書2』 高志書院 2002)