戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

岩船 いわふね

 内陸部からの河川が流れ込んでいた中世の岩船潟の入口に位置した港町。周辺物資の集散地であるとともに、潟を停泊地として日本海水運にもつながっていた。

交通の要衝

 岩船の名は、南北朝期の建武年間の軍忠状に「岩船宿」としてみえる。この時期には街道の宿場町として成立していた。

 平安後期、奥州平泉の藤原清衡が送った金、馬、檀紙などが、岩船のある越後国岩船郡小泉荘とみられる「摂関家領小泉荘」で、定使によって盗まれる事件がおこっている。陸運(あるいは海運)における岩船の機能は、この時期にまで遡る可能性がある。

戦国期の岩船

 戦国期の岩船の様子は、揚北(阿賀野川北岸地域)衆の有力国人・色部氏の『色部氏年中行事』*1からうかがうことができる。

 岩船の中心である五日市や、港湾部である横浜には合物屋がいた。彼らは昆布やニシンなど、明らかに日本海水運によってもたらされた北方の産物を扱っている。ほかにも両集落には「まけし」(曲師)とよばれる職人もおり、タライや柄杓、「なっとうはち」などを作っていることが分かる。

 五日市には、色部氏の御用商人的立場にあった布川氏が住んでいた。同氏は年中行事の物資調達を担当している。岩船が色部氏領において、経済的に重要な位置を占めていたことがうかがえる。

 文禄三年(1594)の『色部氏差出』によると、岩船の町には166軒の家があったと記載されている。

関連交易品

参考文献

  • 市河高男 「中世後期の津・湊と地域社会」(『中世都市研究3 津泊宿』) 1996 新人物往来社

*1:永禄年間(1558~1570)成立と伝えられる