戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

新居 あらい

 浜名湖が太平洋とつながる今切口西側に位置した港町。戦国期は浜名湖の渡し場、あるいは「関」として交通および水運の要所となった。

新居の前身、橋本

 新居の町は、橋本の住人によって作られた。橋本は旧浜名川河口の町で、その名称は旧浜名川に架けられた橋に因んでいる。この橋は『日本三代実録』元慶八年(884)九月条に、「浜名橋」とみえる。陸上交通の要衝であった橋本は、宿町として栄えていた。

 鎌倉期には「遊女」や「あそび」「傀儡(くぐつ)」がいたことが、史料に見える。仁治三年(1242)成立の「東関紀行」には、「人家岸に連なれり」と記されており、浜名川沿いに家屋が立ち並んでいたことが分かる。また南北朝期の「李花集」には、「橋本の松原湊」と見える。

新居の成立

 明応七年(1489)八月の明応大地震と、それにともなう大津波により、橋本の町は壊滅した。港町新居は、災害以後に橋本の住民たちの一部が元新居地域に移住して成立した。

 新居の名は弘治三年(1557)に、「新居里宿」としてみえるようになる。一方で旧橋本の住人たちは、今切にも移住している。天文二十二年(1553)に、「今切渡」がみえる。

浜名湖水運と新居

 永禄五年(1562)三月、今川氏真が中村右衛門太郎に宛てた書状の中で、浜名湖内の今切内浦に繋留している船二艘について、「印判」と「過書」を発給されて軍役に就いている時は、村櫛(新居の対岸)、荒井(新居)に寄航しなくてもよいとしている。

 このことは、印判や過書が発給されない通常時は、新居と村櫛に寄航することが原則であったということを示している。今川氏はこの両港に関を設定することで、諸役の徴収を行っていた。

海上交通の海関

 さらに永禄十一年(1568)三月、新居の奉行に宛てられた書状には、駿府から紀伊半島の熊野山へ御最花(国内の熊野社領年貢や檀那からの寄進)を運ぶ船について、諸役を賦課しないことが指示されている。新居が、海上交通の関でもあったことがわかる。

 また文書内で新居は「新居渡・湊」と書かれている。浜名湖西岸から東岸への渡し場であるとともに、「湊」として海上交通上の中継基地、あるいは周辺物資の積出港を担っていたとも推測される。

参考文献

  • 綿貫友子 『中世東国の太平洋海運』 東京大学出版会 1998
  • 矢田俊文 「戦禍・災害と人々の生活」(有光友学・編 『日本の時代史12 戦国の地域国家』 吉川弘文館 2003)