越後国中部、長岡平野の信濃川中流沿いに位置した市場町。仁治三年(1242)以来、大和吉野の蔵王権現が祀られる信仰の拠点として、また信濃川の舟運と街道が交わる交通・物流の要衝として栄えた。
中越の要衝
南北朝期には蔵王堂城が築かれ、この城を巡る争奪戦が繰り広げられた。15世紀中頃以降は、古志郡を支配した古志長尾氏の本拠となる。後の戦国大名・長尾(上杉)氏を支える、中越の重要拠点となった。
町場の発展
戦国期の蔵王堂は、大きな町だったらしい。文禄五年(1596)九月の直江兼続条書に「蔵王堂東西町」がみえる。この頃には少なくとも、東町と西町の二つの町場から構成される大きな都市であったことが分かる。
なお直江兼続条書では「蔵王堂東西町」の代官として、丸田俊次*1が任命されている。丸田俊次は、上杉家臣として同氏の地域支配にあたった人物。蔵王堂が、上杉領国の重要都市であったことがうかがえる。
日本海への中継地
中世、魚沼郡から物資を運搬する魚野川、信濃川の舟運が蔵王堂まで延びていた。直江兼続条書と同時期の、文禄五年頃とみられる泉沢久秀書状では、六日町から堀之内まで、堀之内から小千谷まで、小千谷から蔵王堂までという、舟つぎの範囲が示されている。
魚沼郡からは、越後の代表産物であった青苧や越後布などが下されていた。小千谷や蔵王堂から、陸路で柏崎などの港へ運ばれたとみられる。
戦国期においても、上記の産物は京都方面に盛んに出荷されている。流域のその他の産物も集荷されて売買されたとすれば、蔵王堂の経済的な繁栄もまた、戦国期に遡ると推定される。
参考文献
- 中野豈任 「第3章 第2節 中世の道 布と市」 (『新潟県史 通史編2 中世 1987)