戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

銀山 ぎんざん

 石見銀山の鉱山町。大永七年(1527)に銀山開発が始まると、仙ノ山一帯には鉱山労働従事者や職人、商人らが集まって巨大な都市が形成され、膨大な物資集散が行われた。なお石見銀山自体は戦国期は「佐間(佐摩)銀山」と呼称されていた。

石見銀山開発の始まり

 大永七年(1527)三月、石見国田儀浦の三島清右衛門により石見銀山の開発がは始まる*1。清右衛門は吉田与三右衛門、同藤左衛門、於紅孫右衛門の3名の大工を同行して銀を入手したとされる(「石州仁万郡佐摩村銀山之初」)。

 「おべに孫右衛門縁起」および「石州仁万郡佐摩村銀山之初」では、「銀山正主」(銀山の所有者か)を三島清右衛門と博多商人の神屋寿禎としている。寿禎は小田藤右衛門*2を代官として石見銀山に派遣。三島清右衛門と寿禎代官小田藤右衛門は、銀山に米・銭を入れ、銀を買い入れたという。

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 そして天文二年(1533)八月には、九州博多から「慶寿と申す禅門」が来訪。このとき初めて銀吹き(灰吹法)が行われたとされる*3(「おべに孫右衛門縁起」)。

銀山をめぐる諸勢力

 石見銀山が所在する邇摩郡佐摩村は石見吉川氏の所領だった。銀山の開発が始まると、応永年間以来邇摩郡の分郡知行を続けていた周防大内氏は、享禄元年(1528)に矢滝城を銀山の防衛拠点とした(『銀山旧記』)。

 享禄四年(1531)、邑智郡川本郷を本拠とする石見小笠原氏が、大内氏が「役人」をおく矢滝城を攻め、銀山が「破れ」たとされる(「おべに孫右衛門縁起」)。ただ小笠原氏は天文十一年(1542)の大内氏による出雲国富田城攻めに協力しており、この頃には銀山は大内氏支配下にもどっていたと推定されている*4

 天文二十年(1551)、大寧寺の変が起こり、大内氏当主の大内義隆が死亡。小笠原氏は陶晴賢に味方し、銀山山吹城で銀山大工の吉田正*5切腹させ、陶氏が派遣した房宗という大工を招き入れた(「おべに孫右衛門縁起」)。

 そして天文二十一年(1552)頃、小笠原氏は石見国鋳物師頭領であった家臣山根常安を通じて「銀山大工所」から「鋳物師公事」を取り立てようと試みている(「真継文書」)*6。これは銀山大工から鋳物師公事の名目で、銀山の収益の一部を得ようとしたものと考えられている。

 天文二十四年(1555)、安芸毛利氏が陶晴賢厳島合戦で滅ぼす。弘治二年(1556)、毛利氏は佐波・福屋両氏と結んで石見銀山一帯を支配するが、小笠原氏と結んだ出雲尼子氏によって、同年中に銀山支配の要である山吹城を攻略されてしまう。

 尼子氏当主の尼子晴久は、天文二十一年(1552)には、出雲杵築商人の坪内宗五郎に対して、「石州佐間銀山」の屋敷五カ所を与えている。この時期の尼子氏が、石見銀山に進出して屋敷権益を確保し、さらに銀山全体を掌握することを指向していたことがうかがえる。

 なお16世紀からの銀山住人名を列挙した「浄心院姓名録」*7には、弘治二年(1556)の年号とともに尼子氏関係者と思しき「ヨコミチ(横道)助三郎」*8の名がある。尼子氏が占拠した銀山に送り込んだ人物の一人とも考えられている。

 一方、毛利氏は永禄二年(1559)八月に小笠原氏を降伏させ、銀山をめぐる情勢は毛利方優位となる。永禄五年(1562)六月、山吹城を守備していた尼子方の本城常光もついに毛利氏に降伏する。

 しかし本城常光は山吹城を完全に明け渡したわけではなく、引き続き銀山支配に関わっていたらしい。毛利氏は同年十一月、本城氏一族を一斉に殺害。山吹城は、城番を務めていた本城氏家臣服部氏によって毛利方に引き渡された(「森脇覚書」)。毛利氏による石見銀山の本格的支配は、本城氏一族討滅によって開始された可能性が高いと見られている。

石銀集落跡

 鉱山の中心地である仙ノ山山頂上付近から南麓の谷あいは、採鉱から製錬に至る諸活動が継続してなされた地域とされる。仙ノ山一帯に存在するおよそ千か所以上の平坦地の多くがこの地域にあることから、大規模な地形改変の可能性が指摘されている。

 その一角である石銀地区では、発掘調査により、一部に側溝をともなう幅1.8から2メートルの道の両側に、「吹屋」と呼ばれた銀製錬建物跡が並ぶ状況が判明した。建物跡背後には坑道入口や岩盤を加工した水利施設が設けられ、内部では選鉱から製錬に至る銀生産遺構と、タガネ・ツルハシ・羽口・被熱した板状土製品といった生産道具類が確認されている。また、陶磁器・木製品・銭貨等の金属製品など生活関連遺物も出土している。

 これらの建物は職住一体の銀生産作業施設だったと考えられており、その年代は16世紀末から17世紀前半と推定されている。しかし、銀生産で生じた廃棄物等を再利用して建物区画と道の位置関係をほぼ変えずにかさ上げを繰り返していることから、鉱山町と呼ぶべき状況は16世紀代も同様だった可能性が高いという。

 また石銀藤田地区の16世紀代に比定される遺構面では、建物内で灰吹法に使用された鉄鍋が、木枠の区画内に鉄製火箸を添えて置かれた使用状況のままで出土。これにより、『朝鮮王朝実録』中の鉄鍋を用いた灰吹法が、日本の鉱山に導入されていたことが明らかとなった。

文献史料にみえる石銀地区

 前述の「浄心院姓名録」が記す「石金(石銀)」住人の最古の年号は、天文十七年(1548)十一月の「番匠藤五郎」であり、銀山開発をそう下らない時期から、町が形成されていたことがうかがえる。なお「浄心院姓名録」の居住地表記からは、16世紀の「本谷」は「石金(石銀)」に含まれていたことが推定されている。

 天正九年(1581)七月五日付の「石見銀山納所高注文」には、毛利氏支配下の銀山の公納額が記載されており、その中に「代八十貰いし金口役」とある(「毛利家文書」)。これは石銀の入口で石銀に運び込まれる物資に課せられた通行税と考えられている。付近には「石銀大ズリノ上西ノ木戸奥」という地名があり、不要な鉱石片(ズリ)による造成地や、「口役」を徴収した木戸の存在が想定されている。

 慶長五年(1600)十一月の「石見銀山諸役未進付立之事」には、「石金ノ酒役」年銀350枚を「惣内加賀組七人衆」が負担していたことがみえる(「吉岡家文書」)。石銀の酒屋に課せられた税額は同史料の「温泉津酒役」の約20倍であり*9、石銀の鉱山町の賑わいがうかがえる。

大谷地区の銀生産

 仙ノ山北西麓の銀山川上流部は、大谷と呼ばれ、そこから支流の山神川沿いに栃畑谷が分かれ、栃畑谷から昆布山谷(こぶやまだに)や出土谷(だしつちだに)が分岐している。

 露頭掘り跡や大谷の龍源寺間歩など、17世紀以降の水平坑道(間歩)が一体に残る。龍源寺間歩入口付近では、戦国期から江戸初期の岩盤を加工した留め枡状遺構・溝・柱穴が確認され、より古い時期の露頭掘り関連遺構の存在も指摘されている。

 慶長五年(1600)の「石見国銀山諸役銀請納書」によれば、付近の坂根谷にて「銀ゆり場役」年銀18枚が徴収されていた。これは粉砕した鉱石の小片から銀を含む部分を比重選鉱する作業(ゆり分け)にかかる税と推定されている。

大谷・栃畑谷・昆布谷・出土谷

 栃畑谷・昆布谷一帯にも銀山開発当初から町が形成されていたとみられる。「おべに孫右衛門縁起」には、「天文八(十一)年八月四日、大水出来候而、昆布山の頭よりつゑぬけ候而、千三百余人流れ候」とあり、天文十一年(1542)には既に多くの人々が居たことがうかがえる。

 「浄心院姓名録」にみえる早い例では、弘治二年(1556)八月八日に栃畑住人の「ウリ畠コエナシ新吾」が、天文八年(1539)三月二十三日に昆布山住人の「松ヤ三郎次郎」の記載がある。このほか、灰吹法を伝えたとされる慶寿が「こぶ山出し土」にみえる。

 天正年間以降の栃畑谷には「京店」「京見世」「京町」という地名があり、住吉屋や泉屋といた摂津・和泉の国名・地名を屋号とする商人たちが居住していた(「浄心院姓名録」)。戦国期の栃畑谷・昆布山谷(および出土谷)一帯は、鉱山労働従事者に加え、主要な商人らも居住する鉱山町だったことがうかがえる。

 なお栃畑谷地区の遺構からは16世紀前半から中頃の陶磁器が出土しており、中世石見銀山では最も古い。伝世品と思しき器種も含まれているという。

 昆布山谷と出土谷が合流する付近には、鉱山の守り神である佐毘賣山神社(山神社)がある。社家である熱田平右衛門尉(秀信)は、慶長三年(1598)の毛利氏「当役人」六名の内の一人でもあった(「吉岡家文書」)。

 この他、銀山川上流部の谷沿いの平坦地には寺院伝承地があり、後背斜面や丘陵上に墓地が数多く残っている。たとえば妙本寺跡上墓地では、一石・組み合わせの五輪塔・宝篋印塔が約400基を数え、最古の紀年銘は天正四年(1576)であるという。

銀山川沿い

 大谷から銀山川沿いに休谷(やすみだに)・下河原へと続き、休谷からは清水谷が分岐している。休谷・下河原の各所では16世紀末から17世紀初頭の建物跡や陶磁器が確認されている。

 山吹城麓である休谷には政治拠点である休役所があり、かつ商人らの営業した町があった。毛利氏の支配を担った一人吉岡氏は休谷の「京見世」・「魚見世」に屋敷を所有していた。また前述の慶長五年(1600)の「石見国銀山諸役銀請納書」には、営業税とみられる「京見世役」年銀160枚を「岡田宗喜・寺井市右衛門」が請け負っていたことがみえる(「吉岡家文書」)。

 蔵泉寺口から先は江戸期の柵外である大森町地域にあたるが、この一帯の発展は元和年間以降と推定されている*10。一方で慶長五年(1600)の「石見国銀山諸役銀請納書」には、「大田ヨリ銀山迄駄賃役」が年銀200枚で設定されており、温泉津から宿場町西田を経由する「西田ヨリ銀山迄駄賃役」290枚に次いで多い。大田方面から大森町域を経由して銀山に至るルートの交通量の多さが知られる。

 中世には大田への街道沿いに集落が形成されたと考えられており、地名「駒の足」は通行税を徴収した場所の存在を物語っているという。

 大森町地域のうち、城上神社前地区では、17世紀初めの道路とそれを横切る暗渠・石蓋が確認されている。さらにしの下の面には16世紀代の道と川原石積みの溝があり、いずれも道の方向は現代までほぼ同じであった。

 また宮の前地区では、16世紀末から17世紀初めの銀製錬建物跡がみつかっている。内部の炉跡には品位調整目的の製錬炉がある可能性が指摘されており、仙ノ山山麓から離れた位置に立地していることも注目されている。

遠隔地から訪れる人々

 文化十三年(1816)の『銀山旧記』には、天文年間の初めのこととして以下のように記されている。

長崎より唐人なりと来たり住す、朽多の頭に唐人屋敷、唐人橋という名あり、色々の唐細工栃畑鍔

 栃畑近くには小字として「朽多」と「唐人橋」の地名が残っており、『銀山旧記』の記述を裏付けている。

 また天正年間には、多くの薩摩国の人々銀山を訪れていたことがうかがえる記録もある。

 天正三年(1575)六月二十四日、上洛からの帰途にあった島津家久は、島津屋関(石見国安濃郡)を出発し、波根・柳瀬・大田を経由して「かな山」(銀山)に到着。そこで宿とした清左衛門という人物の居宅に、加治木(薩摩国姶良郡)の早崎助十郎、久保田弥彦衛門が酒を持って訪れている。

 家久は翌二十五日に出立するが、次の宿場町である西田までに間にも、加治木衆30名の一団と彼らに同行していた肝付新介という人物とすれ違っている(「中務大輔家久公御上京日記」)。

 また前述のように栃畑谷には泉屋や住吉屋を屋号とする商人たちが居住していた。さらに毛利・徳川両氏の銀山下代・役人となった吉岡隼人助は、和泉国堺に本拠を持つ存在であり、慶長七年(1602)には大坂や堺の商人などに対する債権を有したことが分かっている(「吉岡家文書」)。

 池坊第三十世といわれる専栄も、永禄十年(1567)四月に石見銀山を訪れ、「和泉堺甲小路之芝築地弥右衛尉」という人物に立花の口伝書を遣わしている(「池坊専栄立花伝書」)。石見銀山には和泉堺などの遠隔地の諸商人が住み、都から高名な華道家が来訪し活躍できる場であったことがうかがえる。

関連人物

参考文献

本谷の大久保間歩。石見銀山最大級の坑道で、明治期まで採掘が行われた。徳川氏の初代銀山奉行である大久保長安が槍を持って馬に乗ったままで入ったという伝承がある。

本谷の釜屋間歩。山師の安原知種が17世紀初頭に開発したとされる間歩で、上下に黒く筋のように見える銀鉱脈に沿って掘り進んだ様子が分かる。

釜屋間歩の岩盤遺構。江戸初期の鉱山町の一部。狭い谷をできるだけ利用するため、固い岩盤を掘り込んで多数の平坦地が作られ、建物が建てられていたという。また岩盤の斜面や平坦地の床面には多数の溝や水ためが作られており、斜面上方から集めた水を利用して比重選鉱が行われていたとされる。

釜屋間歩近くの石積み。階段状になった土地を補強するために造られたとみられる。

釜屋間歩近くの露頭掘り跡

本谷の本間歩。開発時期は不明だが、その名称から主要な間歩であったと推定されている。

本間歩近くにある五輪塔

宝篋印塔

石銀地区の建物跡

石銀集落の建物跡の後背にある坑口

石銀集落の井戸跡

石銀千畳敷

石銀千畳敷の坑口

栃畑谷。南北にのびる狭阻な谷で、中央を山神川が北流し、大谷で銀山川に合流する。

出土谷に残る石垣

昆布山谷

昆布山谷に残る石垣

昆布山谷の長福寺跡

昆布山谷の新横相間歩

佐毘賣山神社。別名を「山神社」。永享六年(1434)、大内氏が美濃郡益田郷から勧請したと伝えられる。

龍源寺間歩。石見銀山の代表的な坑道で、長さ600m。正徳五年(1715)には掘られていたとのこと。代官所の直轄であり、採掘された銀は幕府の直接の収入源となった。

龍源寺間歩の入口

清水谷製錬所跡。明治二十七年(1894)、大坂の藤田組が近代的な製錬所の建設を始め、翌年から操業開始。しかし鉱石の品質等の問題で不採算となり、明治二十九年には操業停止となった。

石見銀山の有力寺院の一つだった龍昌寺の跡。応永年間に仙ノ山麓に結ばれた草庵が始まりとされ、大永七年(1527)に瀧昌寺と号したという。慶長九年(1604)、奉行所に出願し現在地に移り、翌年に寺号を龍昌寺と改めた。境内では元亀三年(1572)銘の墓石がみつかっている。

西本寺山門。龍昌寺の山門を移築したものであり、慶長9年(1604)のものともいわれる。

下河原吹屋跡。江戸初期の銀製錬所(吹屋)跡。鉱石を砕く「こなし」(粉成)に使用した要石が土間に埋められていた。また製錬施設と思しき石組みの作業台などがみつかっている。土間の表面はいたるところ焼けていて、また多量の炭や「からみ」(鉱かす)が多く出土している。

大安寺跡の大久保石見守(長安)墓。大安寺は慶長十年(1605)、銀山奉行大久保長安菩提寺として創建された。境内の大久保石見守墓は、寛政六年(1794)に長安の功績を讃える隣の石碑とともに再建されたもの。

妙正寺跡。もとは銀山清水谷にあり本迹院と称していたが、後に大破。永正十一年(1514)に妙正寺と号して現在地に再興された。境内地とその背後の丘陵斜面には墓地群が広範囲に広がっており、最古の紀年銘は天正十七年(1589)の一石宝篋印塔。

山吹城の遠景

金森家住宅。嘉永三年(1850)の建築。大森地区では熊谷家住宅に次ぐ規模の町屋建築。元は商家の泉屋川北家がここに居を構え、酒造業を営み郷宿も務めていた。

大音寺橋と宗岡家住宅。宗岡弥右衛門は毛利氏に仕えていたが、後に徳川氏の大久保長安のもとで銀山支配を担い、佐渡国にも派遣されて宗岡佐渡を名乗った。

銀山附地役人を務めた阿部家の居宅。寛政元年(1789)の建築で、大森地区で最も大きな武家屋敷。阿部氏初代の清兵衛は甲斐国出身で、慶長六年(1601)に銀山奉行大久保長安に召抱えられ、子孫も代々銀山支配に関わった。

「駒の足」を説明するプレート

河島家住宅前からの観世音寺遠景

観世音寺の山門。万延元年(1860)に再建。江戸期、観世音寺代官所によって佐毘売山神社・龍昌寺とともに銀山の発展を祈願する場所として指定されていた。

観世音寺から眺めた大森地区の町並み

熊谷家住宅。熊谷家は毛利家臣の出身で、江戸初期から旧銀山町で銀山附役人を務めた。享保十四年(1729)、田儀屋が熊谷家の名跡を継承。鉱山業や酒造業を営み、掛屋(銀を秤量・検査)や郷宿(銀山御料の支配)、代官所の御用達を務めた。

 

井戸神社から眺めた熊谷家住宅

勝源寺の東照宮。元禄十六年(1703)の再建と考えられ、大森町でも最古級の木造建築とされる。

勝源寺境内にある二代目銀山奉行の竹村丹後守道清の墓

代官所跡。徳川氏はもともと銀山町に陣屋が置いていたが、17世紀中期までに現在地に移転した。代官所の建物として残るのは、文化十二年(1815)建築の表門と門長屋。

城上神社。永享六年(1434)、仁摩町馬路から大森の愛宕山遷座され、天正五年(1577)に毛利氏によって現在地に遷座された。

*1:「おべに孫右衛門縁起」では大永六年(1526)三月とされる。

*2:「おべに孫右衛門縁起」では小田藤左衛門としている。

*3:「おべに孫右衛門縁起」および「石州仁万郡佐摩村銀山之初」よりも後に成立した「銀山旧記」では、天文二年に寿禎が博多から宗丹と桂寿を連れてきて銀吹をしたとする。

*4:永禄二年(1569)八月、毛利氏に降伏した小笠原氏の処遇をめぐり、「小笠原領佐間村」(佐摩村=銀山所在地)を取り上げるかどうかが、毛利氏内で協議されている(毛利家文書」)。佐摩村が小笠原氏領となった時期は不明だが、天文十年頃に大内氏に従う見返りとして獲得した可能性が指摘されている。

*5:吉田与三右衛門の入婿。天文十三年(1544)の与三右衛門の死後、銀山大工となっていた。

*6:なお、山根常安は銀山大工に対して2回も督促したにも関わらず納付を拒否されたという。この頃銀山大工は周防山口に滞在していたらしく、山根常安は真継家(京都で鋳物師を統率する家)の関係者に対し、陶晴賢に要請して納付の命令を下してもらってほしい旨を伝えている。

*7:正式名称は「高野山浄心院往古旦家過去帳姓名録」(「上野家文書」)。万延二年(1861)に配札に訪れた浄心院役僧が所持していた帳面を写し取り、さらに謄写を重ねたもの。現在知られているものは三冊の内の一冊であり、表紙には「昆布山 石銀 栃畑 本谷」という地名表記がある。銀山の他の地区である「大谷」「休谷」「下河原」については、他の二冊に記載されたものと考えられている。

*8:永禄九年(1566)富田下城衆書立の中で横道兵庫助秀綱の弟として「横道助三郎」が確認できる。

*9:「温泉津酒役」は18枚とされており、「温泉津町中衆」が請け負っている。

*10:正保二年(1645)の「石見国絵図」には建物や家並み、御銀蔵が描かれているが、「元和年間石見国絵図」には同様の表現がない。