戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

生田 就光 いけだ なりみつ

 毛利家臣。官途名は左衛門大夫。毛利氏が滅ぼした高橋氏一族の出身とみられる。永禄五年(1562)、石見銀山(佐摩銀山)を掌握した毛利氏によって銀山の代官に補任された。

生田就光の出自

 生田就光は、石見国阿須那(現在の島根県邑南町阿須那)を本拠とした高橋氏の一族である生田氏の出身と考えられている。高橋氏は同国邑智郡南部・安芸国高田郡北部を領した有力な国人であり、旧高橋領だった現在の広島県安芸高田市美土里町に「生田」の地名がある。

 文明八年(1476)九月十五日付の「高橋命千代・同一族被官連署契状」によれば、円を中心に放射線状に加えられた署判の中に「生田右馬助秀光」がみえる(「益田家文書」)*1。「光」字を名前の後字として用いていることから、高橋氏一族における「地位の高さを示す」との指摘がある。

 しかし享禄二年(1529)または享禄三年(1530)、高橋氏は周防大内氏および備後和智氏らの援軍を得た毛利氏によって滅ぼされる。生き残った生田氏には毛利氏に仕えた者もいたらしく、天文十九年(1550)七月二十日「福原貞俊以下家臣連署起請文」には、「生田周防守」「生田新五左衛門尉」の名を確認することができる(「毛利家文書」)。

kuregure.hatenablog.com

 生田就光は、高橋氏滅亡から10年余りが経過した天文九年(1540)に生まれた*2毛利元就が嫡男の隆元に家督を譲ったのは天文十五年(1546)であるので、実名の「就」は、隠居後の元就からの偏諱とみられる。

毛利氏の銀山代官

 永禄五年(1562)六月、毛利氏は山吹城を守備していた尼子方の城番本城常光を降伏させ、石見銀山支配下におく。さらに同年十一月、毛利氏は常光を含む本城氏一族を一斉に殺害した。

 元和四年(1618)頃成立といわれる「森脇覚書」によれば、本城氏討滅の際、山吹城は城番を務めていた本城氏家臣服部治部によって毛利方に引き渡された。服部治部はその功績により、「池田」(生田)とともに銀山代官に任じられたという。

 生田氏と服部氏が毛利氏の石見銀山支配に関わっていたことは、別の史料からも確認できる。天正九年(1581)七月五日「銀山納所高辻」に「九拾壱貫 下河原 生田・服部分」と記されており(「毛利家文書」)、両氏が銀山六谷の一つである下河原に給地を与えられていたことが分かる。

kuregure.hatenablog.com

寺社の造営事業

 永禄十年(1567)四月二十八日、出雲国の杵築大社の大日堂の修造がなされた。当時の棟札を参照したとみられる「寛文造営日記」には、本願の「明窓周透和尚」、大工の「神門左門二郎慶清・同与三郎」、統領「山根藤左衛門」らの名前とともに旦那として「服部次郎左衛門就久」と「生田左衛門大夫就光」の名が確認できる(「佐草家文書」)。

 この生田就光と服部就久は、両者が連名であることから、それぞれ毛利氏の銀山代官を務めた生田・服部であると推定されている。生田就光と服部就久が杵築大社大日堂修造の旦那となっていることは、石見銀山と出雲杵築との日常的な交流を背景とし、毛利元就の意向をふまえて修造費用を負担したものである可能性が高いという。

kuregure.hatenablog.com

 なお永禄十二年(1569)正月二十一日「七郎大夫譲状」には、この数年前より「生田殿様」が、杵築大社の参詣宿を経営する「越峠ノ七郎大夫」との間で御供宿契約を結んでいたことが記されている(「坪内家文書」)。生田就光が自ら出雲杵築との間を行き来していたことがうかがえる。

 就光の名は石見銀山の寺院の棟札にもみえる。かつて石見銀山山中に所在した真言宗長楽寺から提出された棟札銘の写には以下のように記されている(島根県立図書館蔵「宝物古器物古文書目録」)。

永禄十一年戊辰五月/大檀那 四品陸奥守大江朝臣元就/大宅朝臣就光 藤原朝臣就久 本願福泉坊

 永禄十一年(1568)五月、毛利元就が大檀那となった長楽寺の造営に、生田就光と服部就久が関わっていたことが分かる。就光と就久の両名は、毛利元就の家臣として石見銀山支配に携わっており、その中で銀山の寺院造営にも関与したものと推測される。

芸石国人高橋氏旧領と石見銀山

 永禄十二年(1569)八月、石見国阿須那の賀茂神社に、狩野派の絵師である狩野治部少輔秀頼*3が描いた「板絵著色神馬図」が奉納されている。この絵馬は二面一対であり、この内の黒毛馬図には旦那として「大宅朝臣就光」の名が記されている。「大宅」は高橋氏の本姓であることから、この絵馬を奉納した人物は、高橋氏一族出身の生田就光であると考えられている。

 国人としての高橋氏は享禄年間に滅ぼされたが、尼子氏が銀山の山吹城城番を任せた本城常光も、高橋氏一族だった。そして前述のとおり、本城氏討滅後に毛利氏が石見銀山代官に補任したのが本城氏旧臣の服部氏や高橋氏一族の生田氏であり、尼子氏・毛利氏による石見銀山支配は高橋氏関係者によって支えられていたことになる。

 かつての高橋氏も、国境地帯の交通路を掌握して勢力を展開していったと推測されている。そして生田就光の名字の地と思しき安芸国高田郡「生田」は、戦国期においては、石見・安芸・出雲三ヶ国を結ぶ場所に位置していた*4

 大永三年(1523)に出雲の尼子経久安芸国東西条の鏡山城(現東広島市)を攻略したが、安芸侵入に際し、「北」と「池田」(生田)に陣を敷いたという(「毛利家文書」*5)。尼子経久出雲国赤穴から石見国都賀へ出て安芸国「北」(現安芸高田市美土里町北)、「生田」(現安芸高田市美土里町生田」に拠点を構築し、そこから一挙に南下して東西条へ乱入したものとみられる。

 年未詳十二月十日「志道広良言上状」によれば、16世紀半ばの安芸国毛利氏領内においては、「上下商人」に対する通行税「銀山出入之駒之足」が、吉田における二カ所と、「北」の計三か所で課せられていたという。「北」を経由していることは、銀山へ出入りし、上り下っていたこれらの商人の多くが、生田を通って石見国側との間を往来していた可能性を示している。

 また生田から国境を越えたところにある石見国邑智郡の久喜・大林銀山では、佐摩銀山(石見銀山)の銀製錬用鉛を産出したともいわれる。この地は生田就光が絵馬を奉納した賀茂神社のある石見国阿須那と密接に関わる場所に位置しているという点でも注目されている。

kuregure.hatenablog.com

参考文献

  • 長谷川博史 「毛利元就の山陰支配―生田就光と福井景吉―」(『島根史学会会報』50 2013)
  • 長谷川博史 「毛利氏支配下における石見銀山の居住者たち」(池亨・遠藤ゆり子 編 『産金村落と奥州の地域社会―近世前期の仙台藩を中心に―』 岩田書院 2012)
  • 長谷川博史「毛利氏の石見銀山支配と「大宅朝臣就光」」(安芸高田市歴史民俗博物館 編 『令和元年度企画展 「芸石国人高橋一族の興亡」』 2020)

阿須那の賀茂神社

*1:文明八年(1476)九月、高橋氏は石見の有力国人である益田兼堯・貞兼父子と、緊密に連携し相互に扶助することを約した契約状を取り交わした。この時、高橋氏当主の命千代は元服前であったため、一族・家臣の有力者16名が円を中心に放射線状に署判を加えた。

*2:永禄十二年(1569)、生田就光は島根県邑南町阿須那の賀茂神社に絵馬(「板絵著色神馬図」)を奉納しているが、そこに天文九年(1540)生まれであることが記されている。

*3:狩野元信の次男とも孫ともいわれる。

*4:たとえば、安芸国高田郡内を南下するルート(生田→北→横田→吉田郡山)、石見国邑智郡から安濃郡・邇摩郡へ北上するルート(生田→久喜→出羽→川本→佐摩銀山)、石見国邑智郡から出雲国飯石郡などへ至るルート(生田→大林→阿須那→都賀→出雲国赤穴)などが、いずれも生田を経由している。

*5:天文年間初頭の毛利氏家臣連署書状案に、「先年伊予守(尼子経久)殿、北・池田御陣之時、亀井能州(秀綱)以取次、幸松丸罷出候、其侭西条へ魁を仕、涯分令馳走、御利運ニ候つる事」と記されている。