戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

高橋 興光 たかはし おきみつ

 石見国阿須那(現島根県邑南町)を拠点とした国人、高橋氏の当主。仮名は大九郎。高橋弘厚の子。江戸中期に作成された「安芸国高田郡図」では、高田郡横田村の松尾城広島県安芸高田市美土里町横田)について城主高橋大九郎としている。

家督を継ぐ

 永正十二年(1515)三月、当時の当主・高橋元光が備後国入君(広島県三次市君田町)で討死。大内氏の意向もあり、興光が跡を継ぐことになった。大内義興安芸国人・毛利興元石見国人・周布興兼に対し、元光の所領は興光に与えるとの将軍家の御下知があったことを伝え、興光と相談して奔走するよう指示を出している(「長府毛利文書」)。

 しかし翌年の永正十三年(1516)二月、毛利興元は高橋氏の松尾城を攻めている(「粟屋家文書)。当時の高橋氏と毛利氏との、緊張関係がうかがえる。

出雲赤穴氏との関係

 興光は出雲の赤穴久清に対し、「一騎役」をつとめることを条件に、福田村(飯南町下赤名)を赤穴氏へと返還していたらしい。

 永正十三年(1516)五月、興光は久清に対し、合戦協力への代償として、この一騎役の免除を伝えている(『閥閲録』巻37)。興光は「不相替得御扶持、可致奉」とも述べており、赤穴氏とは相互協力の盟約があったことがうかがえる。

高橋氏と被官

 大永五年(1525)十月、興光は佐々部宮千代(祐賢)*1に安堵状を発行し、家督相続を認めている(『閥閲録』巻88)。この安堵状の原文は、興光自筆の文書と推定されている。

 なお佐々部氏の家督は、元は宮千代の兄の光祐が継いでいたが、尼子方に属したため、祖父承世によって改めて宮千代を当主としたという。また家督相続にともなう安堵は、高橋氏だけでなく毛利氏からも得ていた(『閥閲録』巻88)。佐々部氏は高橋氏と毛利氏に両属する立場であった。

大内氏と敵対

 その後、高橋氏は大内氏に敵対したらしい。享禄二年(1529)七月、大内氏は興光が知行していた豊前国仲津郡の15町を、石見国人・周布彦次郎に打ち渡すよう豊後守護代・杉重信に命じている。同年九月、父弘厚らの知行地も、大内氏に没収されている(『閥閲録』)。後年の毛利氏の文書によると、興光の父・弘厚が大内氏への恩を忘れて、尼子氏に通じた為という(「毛利家文書」)。

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 なお同年四月、毛利氏の家中で「錯乱」が起こりそうになるも、直ぐに収拾されるという事態が発生した(『閥閲録』巻11)。以前から毛利氏と高橋氏は婚姻関係*2にあり、興光が尼子方につくにあたり、何らかの調略があった可能性がある。

毛利氏らの侵攻

 享禄三年(1530)五月、大内氏重臣陶興房は安芸吉田の国人・毛利氏の重臣志道広良に対し、出雲国における塩冶興久の乱への対処について意見を求めた。この時、毛利氏の戦況とともに、宍戸元源が吉茂下庄を占領したかどうか、松尾城周辺の戦況はどうかについて尋ねている(『閥閲録』巻16)。高橋氏は、毛利氏ら大内方国人の攻撃を受けていた。

 松尾城は、備後国人・和智氏および大内氏重臣・弘中隆兼の援軍を得た毛利元就によって攻め崩された。城を守っていた高橋弘厚は自害したという。七月、大内義隆毛利元就に対して「上下庄」の「進退」を了承しているので、この頃までに松尾城は陥落したとみられる(「毛利家文書」)。

興光の死

 この後、興光は阿須那(島根県邑智郡邑南町阿須那)の藤根城に立て篭り、「塩冶衆」(尼子経久の三男・塩冶興久の勢力)を引き入れようとした。しかし毛利元就の「武略」により、切腹に追い込まれ、城は開城した。

 享禄三年(1530)*3十二月、大内義隆毛利元就に阿須那等の高橋旧領の支配を認めている(「毛利家文書」)。興光の切腹は、これ以前のことと考えられる。

高橋氏滅亡と戦後処理

 高橋氏の出羽支配の拠点「本城要害」(本城、島根県邑南町下田所)も毛利氏に攻略された。享禄四年(1531)二月、出羽700貫のうち、高橋氏が押領していた450貫を出羽祐盛に返付している(『閥閲録』)

 なお本城跡は、本丸を中心に徹底的に破壊された形跡がある。毛利氏による破城が行われたと推定されている。

その後の高橋氏

 興光の死後、高橋一族の生田就光は毛利元就に仕えた。また同じく高橋一族の北氏は毛利元就の異母弟・就勝が、口羽氏は毛利一族の志道通良がそれぞれ継承した。

 一方、後に尼子方の武将として毛利氏を苦しめた本城常光も、高橋氏の一族だった。天文九年(1540)に尼子氏が毛利氏の本拠吉田を攻めた郡山合戦には、常光も尼子方として従軍した。また九月十二日の合戦で毛利方に討ち取られた「高橋本城」もいた。

阿須那の賀茂神社

 高橋氏の始まりの地であり、興光最後の地である阿須那の賀茂神社には、興光死後も高橋一族が関わった。永禄十二年(1569)、生田就光が賀茂神社に絵馬を奉納しており、元亀四年(1573)にも「大宅朝臣」(高橋一族の名乗り)が願主となって大神楽と柱松23本が奉納されている。

 また賀茂神社境内の剣神社には、高橋興光が祀られている。同社は地元住民によって建立され、神楽奉納、祭事が25年ごとに執り行われ、今日に至っている。

参考文献

  • 安芸高田市歴史民俗博物館 編 『令和元年度企画展 「芸石国人高橋一族の興亡」』 2020
  • 秋山伸隆「高橋氏の滅亡時期をめぐって」安芸高田市歴史民俗博物館 編 『令和元年度企画展 「芸石国人高橋一族の興亡」』 2020)
  • 岸田裕之「芸石国人領主連合の展開」(『大名領国の構成的展開』 吉川弘文館 1983)

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阿須那の賀茂神社境内にある剣神社の社。高橋興光を祀っている。

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興光が籠城した藤根城跡。

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藤根城の城下町・阿須那の町並み。

*1:佐々部氏は、現在の安芸高田市高宮町佐々部を所領とする。

*2:毛利元就の兄興元の室は高橋氏の娘であり、元就の娘のうち一人は二才の時に高橋氏のもとに送られていた(「毛利弘元子女系譜書」)。

*3:高橋弘厚の松尾城陥落および興光の藤根城陥落は、享禄二年(1529)とする説もある。