戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

阿須那 あすな

 石見国国人領主高橋氏の本拠地。現在の島根県邑南町阿須那。石見高橋氏は南北朝期から戦国期にかけて、石見・安芸・備後にまたがって勢力を拡大した。高橋氏滅亡後は毛利氏の支配下となり、同氏の石見・出雲経略の要地となった。

高橋氏の進出

 貞応二年(1223)三月、石見国内のすべての荘園・公領を書き上げた「石見国中庄公惣田数注文」が作成される。この中で邑智郡の公領として「くちは(口羽)」「いちき(市木)」などとともに「あすな(阿須那) 三丁一反」が記されている(「益田家文書」)。

 南北朝期以降は国人領主である石見高橋氏の本拠地となった。石見高橋氏の祖は備中松山城岡山県高梁市)の高橋師光とされる。師光は正平五年(1350)に北朝方の高師泰に従い石見国に出陣(『太平記』巻28)。そのまま阿須那に土着し藤掛城を居城としたといわれる(『石見誌』)。

 後に高橋氏は足利直冬と結んで南朝方となり、延文六年(1361)三月五日、師光の子とみられる光明が阿須那西方の出羽郷(島根県邑南町出羽)へ侵攻。同年九月四日に領主の出羽(君谷)実祐を討ち死にさせ、その所領を押領している(「出羽家文書」)。

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石見・安芸・備後にまたがる勢力圏

 応永二十六年(1419)、高橋玄高が平賀頼宗・宍戸弘朝とともに安芸毛利氏の惣領家と諸氏家との紛争を調停(「福原家文書」)。石見高橋氏が安芸国にも影響力をもつ国人領主となっていることが知られる。

 また文明八年(1476)九月、高橋氏は石見の有力国人領主である益田兼堯・貞兼父子と契約状を取り交わした(「益田家文書」)。そこに一族や家中の有力者16名が円を中心に放射線状に加判*1。署判した人物の姓には、横田(広島県安芸高田市美土里町横田)や北(安芸高田市美土里町北)、生田(安芸高田市美土里町生田)、出羽(島根県邑南町出羽)、雪田(邑南町雪田)、長田(邑南町上田)、口羽(邑南町上口羽・下口羽)などの地名がみられる。

 この他、享禄三年(1530)までには邑智郡都賀東西(島根県美郷町)や備後国森山(広島県三次市作木町森山西・森山中・森山東)・山中(三次市作木町光守・西野・大畠)・河淵(三次市作木町伊賀和志・大津)にも所領があったことが知られる*2(「中川文書」」)。高橋氏が本拠地阿須那を中心として、これら石見・安芸・備後にまたがる領域に一族・家臣を分散して支配していたことがうかがえる。

高橋氏の経済基盤と寺社造営

 石見高橋氏の経済基盤の一つが製鉄であったとされる。同氏の支配地域では多くの製鉄遺跡が確認されており、邑南町内の中世期の「野たたら」は概算で300箇所以上分布しているという。特に操業年代が14〜15世紀と推定される畑ヶ迫口製鉄遺跡(邑南町上田所)は、標高420m付近の尾根をL字状に削平して製鉄炉が構築されており、炭窯や大鍛冶炉も検出されている。

 邑南町阿須那の西蓮寺の本尊である地蔵菩薩は、14世紀後半頃に京都の院派仏師により製作されたもので、像高35.9cmの寄木造り。そして院派の仏像は、島根県で本像を含めて3像しか確認されていないという。本像の製作時期は、石見高橋氏が勢力を拡大させていた時期にあたり、同氏が豊富な鉄資源等の経済基盤を背景に寺社の造営や文化交流をすすめていた可能性がある*3

高橋氏の滅亡

 享禄二年(1529)、石見高橋氏は周防大内氏と敵対。翌享禄三年(1530)七月までに高橋弘厚(当主興光の父)の籠る横田(安芸高田市美土里町横田)の松尾城が、毛利元就、弘中隆兼(大内氏重臣)および備後和智氏の軍勢により陥落する(「毛利家文書」)。

 当主の高橋興光は阿須那の藤根(藤掛)城に籠城していたが、同年中には毛利元就の「武略」により切腹に追い込まれ、城は開城した(「毛利家文書」)。同年十二月十一日、大内義隆毛利元就に対し「阿須那 高橋伊予守(弘厚)跡」や安芸国の船木・佐々部・山県などの支配を認めている(「毛利家文書」)。ここに石見高橋氏は滅亡した。

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 一方で高橋氏の一族には本城常光など出雲尼子氏に属す者もいた。天文十二年(1543)十月、尼子晴久大内氏との合戦で戦功を挙げた赤穴盛清に対し、恩賞として邑智郡都賀東西と阿須那を与えようと考えたが、それらがともに「高橋治部少輔(弘厚)本地」なので、都賀西と阿須那については返すことになったと伝えている*4(「中川文書」)。「高橋治部少輔本地」は尼子方の高橋氏一族に返還するつもりだったと推定される。

戦略上の要衝

 阿須那は石見・安芸・備後・出雲の国境付近に位置しており、戦略上の要衝でもあった。

 天文十一年(1542)、大内氏出雲国への遠征を開始すると、三月に大内氏重臣内藤興盛長門国守護代)と杉重矩(豊前国守護代)が出羽の二山(二ツ山城)に入り、陶晴賢周防国守護代)が阿須那北方の都賀に進軍。さらに杉宗三が江の川の都賀渡に船橋(多数の小船を固定して作った橋)を設けている(『二宮俊実覚書』)。目標は出雲国飯石郡赤穴城(島根県飯南町)の攻略であった。

 大内軍は赤穴城を落として尼子氏の本拠である富田城を包囲したものの、天文十二年(1543)五月に総退却を開始したところに尼子軍の追撃を受けて大敗。高橋氏に押領されていた旧領を毛利氏から返還されていた石見国人出羽祐盛までもが尼子氏に寝返った*5

 これを受けて毛利元就は毛利氏領国の「北口」守備のため、一族の志道通良(後の口羽通良)を「口羽之城」(琵琶甲城か)に入れている(『譜録』渡辺三郎左衛門直)。一方、出羽祐盛は天文十三年(1544)六月、同じく尼子氏に寝返った安芸国吉川興経に対して「ひわのかう(琵琶甲)」に番衆が少し置かれているとはいえ、自分たちだけで「阿須那口」を制圧することは可能だと述べている*6

 天文二十四年(1555)十月一日、毛利氏は厳島合戦大内氏を破り陶晴賢を敗死させる。この後、毛利氏は石見国方面において、邇摩郡の石見銀山に進出した出雲尼子氏と尼子氏と結ぶ石見小笠原氏と敵対することになる。石見国での尼子方勢力との戦いの中で、阿須那は毛利方の戦略上の要衝となる。

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 弘治二年(1556)三月、毛利元就熊谷信直に対し、石州表が乱れているとして、吉川元春宍戸隆家・口羽通良らとともに阿須那に出陣し、味方の佐波氏(邑智郡の国人領主)とのつなぎの城を都賀・用路にくわえて新たに山南にも築く予定であることを伝えている(「熊谷家文書」)。その後も弘治二年(1556)七月や永禄元年(1558)七月など、石見国の国境地帯で敵方の動きがあると毛利元就が阿須那に出陣していることが確認できる(「山県家文書」『萩藩閥越録』巻133)。

 永禄五年(1562)六月、毛利氏はこの頃までに小笠原氏や石見銀山の本城常光らを降すなどして石見国をほぼ平定し、同年七月には出雲国への侵攻を開始。七月三日、毛利元就・同隆元以下のすべての者が阿須那を出陣し、同月二十一日に都賀に陣替えの後、同月二十八日に赤穴(島根県飯南町)を経由して出雲国に侵入したという(「浄泉寺文書」)。

毛利氏の時代

 前述のとおり享禄三年(1530)十二月、毛利氏は大内義隆から阿須那の支配を認められた。天文十一年(1542)以降、毛利氏の阿須那支配にかかわる史料が確認できる。

 天文十一年閏三月、毛利氏奉行人の粟屋元国・井上就重が、阿須那村・戸河内村・雪田村の三ヶ村内にある阿須那賀茂神社の祭礼神田を書き上げている。阿須那村内では、「は祢尾(羽尾)」に「本屋敷」があったことや、「紙屋垣内」という地名があったことなどが知られる。また阿須那村南方の戸河内峠を越えた先にある戸河内村には「いもの屋(鋳物屋)」があったことも記されている(「阿須那賀茂神社文書」)。

 またこの前後で毛利氏は、阿須那内の原田名や「かミやかいち(紙屋垣内)」、藤祢名などを粟屋元重・同元信・門田就頼ら家臣に給地として与えている(「大田市中村俊郎氏所蔵文書」『萩藩閥越録』巻33)。

 毛利氏は阿須那の賀茂神社の造営事業にも関わった。天文十九年(1550)九月、毛利隆元が大檀那となって賀茂大明神の社一宇を再興。棟札には口羽通良と大工三吉次郎右衛門尉の名も記されている(「阿須那賀茂神社所蔵棟札」)。

 さらに弘治四年(1558)四月、口羽通良が賀茂天神宮の宝殿を造営*7(「阿須那賀茂神社所蔵棟札」)。通良は永禄三年(1560)四月にも大檀那となって賀茂神社の拝殿を建立している*8(『石見国神社記』)。

 永禄十二年(1569)八月、賀茂神社狩野派絵師の狩野治部少輔秀頼*9が描いた「板絵著色神馬図」が奉納される。この絵馬は二面一対であり、この内の黒毛馬図には旦那として「大宅朝臣就光」の名が記されている。「大宅」は高橋氏の本姓であることから、この絵馬を奉納した人物は高橋氏一族出身の生田就光であると考えられている。

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 元亀四年(1573)十一月には、「大宅朝臣」により「大神楽」と「柱松」23本が奉納された(「阿須那賀茂神社所蔵置札」)。この時の置札には口羽通良の名もあるが、後に書き加えられた可能性もあるという。天正二十年(1592)二月、口羽通平(通良の孫)が備中多治部の勝宗が作った鉄燭台を賀茂神社に寄進している(『石見国神社記』)。

 なお口羽通良三男の通元は、本願寺顕如から泉秀の法名を賜り阿須那の西蓮寺に入った。口羽通良と同通平は泉秀に対し、細貝名と坊主職を末代に至るまで安堵する宛行状を発給している(「西蓮寺文書」)。

関連人物

参考文献

  • 井上寛司 「『中世邑南町域関係史料集』刊行の意義と重要性」(『中世邑南町域関係史料集』刊行記念講演会 2024年12月1日 於田所公民館)
  • 安芸高田市歴史民俗博物館 編 『令和元年度企画展 「芸石国人高橋一族の興亡」』 2020
  • 森岡弘典 「邑南町の高橋氏関係史跡」(ロビートーク「邑南町の高橋氏関係史跡」 2019年12月7日 於安芸高田市歴史民俗博物館)
  • 藤井崇 『ミネルヴァ日本評伝選 大内義隆 ー類葉武徳の家を称し、大名の器に載るー』 ミネルヴァ書房 2019
  • 邑南町教育委員会 編 『中世邑南町域関係史料集』 邑南町・邑南町教育委員会 2024

阿須那の町の眺望

阿須那の町の遠景

阿須那の町並み

阿須那の町並み

阿須那の町並み

阿須那の町並み

阿須那の賀茂神社

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阿須那の賀茂神社境内にある剣神社の社。高橋興光を祀っている。

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高橋興光が籠城した藤根(藤掛)城跡

永禄三年(1560)に口羽通良が創建した西蓮寺。後に通良三男の通元(泉秀)が入り、細貝名と坊主職を安堵された。

*1:口羽下野守光慶、岡長門守光基、上出羽越□□光教、新見□後入道浄鳳、山形河内□光朝、重延大和守光秀、与次郎清光、山城守光直、下出羽藤兵衛尉光明、長田備前光季、北越後守光康、井戸大膳助光益、横田常陸守朝光、雪田民部少輔光理、生田右馬助秀光、繁安筑後守光通の署名がある。

*2:邑智郡都賀東西については後述。備後国森山・山中・河縁については、享禄四年(1531)十一月二十三日付の赤穴光清宛の尼子経久書状に「備後之内森山・同山中・河淵之事、先年高橋退治之刻より我等令知行候」とある。

*3:阿須那の賀茂神社も旧記に「延文二年(1357)卯月吉日賀茂神社再建」とあることから、高橋氏の来住にあたり、同氏によって創建されたと考えられている。

*4:晴久はその替地として邑智郡君谷700貫と安濃郡河合の内金子知行分300貫を与えることを約束している。

*5:阿須那藤根城が開城した後、毛利氏は高橋氏の出羽支配の拠点「本城要害」(島根県邑南町下田所)も攻略。享禄四年(1531)二月、出羽700貫のうち、高橋氏が押領していた450貫を出羽祐盛に返付している(『閥閲録』巻43)。

*6:その後、天文十八年(1549)四月になって出羽氏の家督を出羽元祐が継承(『閥閲録』巻43)。これを大内義隆が承認しており、出羽氏が大内方に復帰していることが分かる。

*7:大工は渡辺但馬守と三吉次郎右衛門尉。

*8:大工は渡辺但馬守、小工は(三)吉次郎右衛門尉。

*9:狩野元信の次男とも孫ともいわれる。