戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

上出羽 光教 かみいずわ みつのり

 石見国邑智郡阿須那(現島根県邑南町)を本拠とした国人領主石見高橋氏の家臣。家中の有力者の一人。文明八年(1476)九月の契約状に署名がみえる。その姓から邑智郡上出羽郷を拠点としていたとみられる。

上下出羽郷を支配する高橋氏一族

 文明八年(1476)九月、石見高橋氏は石見の有力国人である益田兼堯・貞兼父子と、緊密に連携し相互に扶助することを約した契約状を取り交わした。この時、高橋氏当主の命千代は元服前であったため、一族・家臣の有力者16名*1が円を中心に放射線状に署判を加えている(「益田家文書」)。

 その中に上下出羽郷(島根県邑南町出羽)の郷名を姓とする「上出羽越□□光教」と「下出羽藤兵衛尉光明」の名がみえる。上出羽光教は上出羽郷(上田所・下田所・上亀谷・下亀谷・鱒渕)に、下出羽光明は下出羽郷(三日市・八日市・山田・淀原・岩屋・久喜・大林・原村・和田)にそれぞれ拠っていたとみられる。

高橋氏による上下出羽郷の押領

 南北朝期、上下出羽郷は北朝方の君谷実祐が地頭職を獲得していた。そんな中、延文六年(1361)三月五日、当時南朝方だった高橋光明が出羽郷へ侵攻。同年九月四日、「出羽城」(二ツ山城か)において実祐を討ち死にさせた(「出羽家文書」)。

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 そのまま高橋氏は出羽郷を押領したらしい。貞治二年(1363)十二月、将軍足利義詮は石見守護荒川詮頼に対し、君谷祐忠(実祐の子)に上下出羽地頭職を沙汰し、濫妨人を退けるよう命じている(「出羽家文書」)。

 嘉慶二年(1388)十二月、足利義満は君谷祐忠に出羽上下地頭職の領掌を認めたが、依然として高橋氏は出羽郷を押領していた。明徳元年(1390)八月、石見守護大内義弘の奉行人は、「高橋押妨」が止まないのはよくないとして、高橋氏が構えた要害を破壊して下地を君谷祐直に沙汰し付けるよう、石見守護代右田弘直に伝えている (「出羽家文書」)*2

 その後も君谷出羽氏は幕府や石見国守護から出羽上下地頭職を安堵されている。しかし上下出羽郷の旧領を取り戻すには至らず、15世紀は依然として石見高橋氏が同郷の過半を押さえていたとみられる。

 また前述のとおり上出羽光教や下出羽光明が加判した契約状は文明八年(1476)九月に取り交わされた。一方でこれより数年前頃には、石見国守護山名是豊が「都鄙御大事之時分」であるとして、出羽太祐に石見高橋氏との間で事を構えないことを承知させている(『萩藩閥越録』巻43))。

 上出羽郷における石見高橋氏の城郭としては、下田所の本城が知られる。同城は標高486mの独立丘陵の頂部に主郭を設け、東西南北に多くの郭や連続堀切、畝状空堀群を設けている。高橋氏の他の城と比べて堅固で規模大きい。

 一方、上出羽郷鱒渕には君谷出羽氏の城だった二ツ山城もあった。同城からは15世紀頃の備前焼大甕が出土しており、高橋氏支配中も引き続き使用されていた可能性があるという。

高橋氏滅亡後の出羽郷

 享禄三年(1530)、阿須那の藤根城に籠城していた高橋興光毛利元就の「武略」により切腹に追い込まれ、石見高橋氏は滅亡(「毛利家文書」)。元就は上出羽郷の「本城要害」も攻略し、出羽郷の高橋領も制圧した。

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 享禄四年(1531)二月、毛利元就は出羽祐盛に対し、出羽700貫のうち450貫は高橋が代々押領してきたとして、大内義隆の承認のもと出羽祐盛に返付している(『閥閲録』巻43)。なお本城跡は主郭が畝状に掘られるなど大規模な破壊の痕跡があり、毛利氏による破城が行われたと推定されている。破壊の跡は城下からもみえるほどであり、政治的な目的もあったともいわれる。

 高橋氏惣領家滅亡後、高橋氏一族の本城氏は出雲尼子氏に属した。後に尼子方として石見銀山の山吹城を守備した本城越中盛常光は、上出羽郷本城にゆかりがあるともされる。また天文九年(1540)に尼子氏が毛利氏の本拠吉田を攻めた際、九月十二日の大田口合戦で「高橋本城」以下数十人が毛利勢に討ち取られている(「毛利家文書」)。

参考文献

  • 安芸高田市歴史民俗博物館 編 『令和元年度企画展 「芸石国人高橋一族の興亡」』 2020
  • 森岡弘典 「邑南町の高橋氏関係史跡」(ロビートーク「邑南町の高橋氏関係史跡」 2019年12月7日 於安芸高田市歴史民俗博物館)
  • 井上寛司 「『中世邑南町域関係史料集』刊行の意義と重要性」(『中世邑南町域関係史料集』刊行記念講演会 2024年12月1日 於田所公民館)
  • 角川日本地名大辞典」編纂委員会、竹内理三 編 『角川日本地名大辞典 32 島根県』 角川書店 1979
  • 邑南町教育委員会 編 『中世邑南町域関係史料集』 邑南町・邑南町教育委員会 2024

上出羽郷の本城跡の遠景

下出羽郷山田の堀越城跡から眺めた二ツ山城跡

*1:口羽下野守光慶、岡長門守光基、上出羽越□□光教、新見□後入道浄鳳、山形河内□光朝、重延大和守光秀、与次郎清光、山城守光直、下出羽藤兵衛尉光明、長田備前光季、北越後守光康、井戸大膳助光益、横田常陸守朝光、雪田民部少輔光理生田右馬助秀光、繁安筑後守光通

*2:この命令はすぐには実行されなかったらしく、同年十月、大内氏奉行人は君谷祐忠方(祐直)に急ぎ打ち渡すよう改めて石見守護代右田弘直に命じている(「出羽家文書」)。