戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

生田 秀光 いけだ ひでみつ

 石見国阿須那(現島根県邑南町)を拠点とした国人・高橋氏の家臣。家中の有力者の一人。官途名は右馬助。

益田氏との契状

 文明八年(1476)九月、高橋氏は石見の有力国人である益田兼堯・貞兼父子と、緊密に連携し相互に扶助することを約した契約状を取り交わした。この時、高橋氏当主の命千代は元服前であったため、一族・家臣の有力者16名が円を中心に放射線状に署判を加えている。その一人に「生田右馬助秀光」がみえる(「益田家文書」)。

 現在の広島県安芸高田市美土里町生田にあった生田城(通称、高橋城)が、生田氏の城と考えられている。江戸期の「国郡志御用ニ付下調書出帳生田村」によると、文政三年(1820)当時、高橋城跡(生田城)は池田右馬頭居城と伝わっていた。

その後の生田氏

 享禄三年(1530)頃、高橋氏惣領家が毛利氏らに滅ぼされる。生田城も毛利氏のものとなったが、天文五・六年(1536,37)には一時尼子方に奪われており、毛利・尼子両氏による争奪戦場となった。

 毛利元就に仕えた生田就光は、高橋一族を示す「大宅朝臣」を名乗った。彼が、高橋一族生田氏の後裔であることが知られる。

参考文献

  • 安芸高田市歴史民俗博物館 編 『令和元年度企画展 「芸石国人高橋一族の興亡」』 2020

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生田城跡の遠景。