戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

マキアン Makian

 インドネシアのマルク諸島(モルッカ諸島)の一つマキアン島の港町。マキアン島は、テルナテ島とならぶ丁子(クローブ)の産地であり、マルク諸島最良の港を持つことで知られた。

16世紀初頭のマキアン島

 ポルトガルトメ・ピレスは、16世紀初頭のマキアン島について『東方諸国記』に記している。130隻のパラオ(小船)があり、人口は約3000人で、そのうち約300人のムスリムであった。王はムスリムであり、ラジャ・ウセンと呼ばれていた。またティドレ王のラジャ・アルマンソールの従兄弟であり、ティドレ王にある程度服従する立場であったとしている(『東方諸国記』)。

 1518年(永正十五年)、マルク諸島の3人の王が一緒にポルトガルのインド総督ロポ・ソアレス・デ・アルベルガリアに手紙を送っている。そこにはマキアン王として「レベシュセン」が名を連ねており、ラジャ・ウセンと同一人物と考えられている。

マルク諸島最良の港

 マキアン島にはジャンク船が停泊できる良港があり、丁子(クローブ)を求める貿易船が入港した。ジャンク船が入港できたのは、マルク諸島では、マキアン島の他はテルナテ島だけだったという。また他の国々よりも取引が盛んだったとしている。

 このため、ティドレ島やモティ島の人々も、パラオ(小船)に丁子を積んで、マキアン島まで売り捌きに来た。マキアン島自体も、テルナテ島とならぶ丁子の産地であり、毎年1500バールの丁子が産出されたと報告されている。

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17世紀初頭のマキアン島在住日本人

 17世紀になるとマルク諸島にオランダ東インド会社が進出してくる。同社は、テルナテ島とマキアン島に拠点をおいた。同社駐在員の中には、日本人も含まれていた。

 1623年(元和九年)8月29日現在のマルク諸島在勤会社員名簿によれば、マキアン島西岸のタファソーおよび同島東北岸のノフィキヤに、計9名の日本人が住んでいた*1

参考文献

*1:9名の内、6名が会社の使用人で、3名が自由人だった。マルク諸島では、他にもテルナテ島に5名の日本人が住んでいた。