戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

祝 甲斐守 ほうり かいのかみ

 備後国人・江田氏*1の被官。備後国三谿郡高杉の知波夜比古神社の祝職(神職)であり、同社を内包する高杉城の城主でもあった。

江田隆連の尼子方転向

 天文二十二年(1553)四月三日、備後国三谿郡三若の国人・江田隆連が出雲国尼子晴久に通じ、周防大内氏の陣営から離反。晴久率いる尼子勢も、出雲から南下して備後に入る構えをみせた。

 これに対して大内方の毛利氏は、吉川氏、小早川氏らを率いて備後に出陣。四月十二日に毛利勢が江田氏の寄国固屋(三次市三良坂町)を攻めている。五月には、備後に尼子勢が着陣して湧喜城(庄原市口和町湯木)を寝返らせた。同城西方の泉城(庄原市口和町向泉)には毛利勢が援軍として駆けつけ、二十二日に尼子勢と萩川の瀬で交戦。決着に至らずに、尼子晴久は尼子方の備後国人・山内氏の甲山城(庄原市山内町)に入った。

高杉城の戦い

 祝甲斐守の高杉城は、江田氏居城・旗返山城(三次市三若町)の北西の支城でもあった。『二宮佐渡覚書』によると、城には甲斐守のほかに、親族とみられる祝治部大夫、江田氏の援軍二百人余り、久代宮氏の援軍百名余りが立て籠もっていた。

 天文二十二年(1553)七月二十三日、毛利勢が高杉城に攻め寄せた。城方は毛利被官・粟屋弥七郎を討死させたものの、即時に切り崩され、五百人余りが討ち取られた*2(『森脇覚書』)。城方の多くが殺され、祝甲斐守も討ち取られたと推定される。

 高杉城を落とした毛利勢は、大内氏の援軍とともに旗返山城を包囲。十月、江田隆連が城を脱出して甲山城に逃れたため、江田氏は滅亡した。

戦後の祝氏と高杉

 ただ祝氏は滅亡を免れたらしい。天文二十三年(1554)十月、三吉致高・隆亮父子が祝善兵衛尉に対し、「高杉神主職」は以前の筋目の通り「広縄」に与えることを伝えている(「武田文書」)。これより少し前の同年六月、三吉氏が新たに作らせた御神体の台座に、三吉致高・隆亮父子とともに「社務武田広縄」の名前がみられる(「台座銘」)。祝氏の本姓が、武田*3であったこともうかがえる。

 天文二十二年(1553)の合戦で焼失した知波夜比古神社の社殿も、弘治二年(1556)に毛利元就・隆元父子が大檀那となって再建された(「同社棟札」)。

 武田(祝)氏の一族には、毛利氏に仕えた者もいた。高杉小四郎は、天文二十三年(1554)六月五日、陶氏との明石口合戦で敵を討ち取って元就・隆元父子から感状を得ている(「萩藩閥閲録」巻59)。江戸期、小四郎の子孫・高杉春信*4が毛利家に提出した系図には、「武田末流 高杉小四郎」「備後国三谷郡高杉邑に住む。故に高杉と称す」とある(「略系并伝書御奉書」)。

参考文献

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祝甲斐守の墓と伝わる宝篋印塔。500m向こうに高杉城跡(知波夜比古神社)が見える。

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知波夜比古神社の本殿。高杉城合戦で当時の本殿は焼失したが、後に毛利氏により再建され、現在に至る。

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高杉城跡北辺の土塁。一部、土塁が無い箇所は、虎口の一つだった可能性があるという。

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高杉城北辺の土塁。

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高杉城の堀。

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高杉城南辺の石積み。

*1:本拠地は備後国三谿郡三若。旗返山城を居城とした。同じく備後国人である和智氏の一族。

*2:『二宮佐渡覚書』では「頸数六百余程御座候」「元春様御手へ頸百拾一取らせられ候」とある。

*3:武田氏は、江戸期に高杉で庄屋となり、「武田文書」を伝えた。

*4:幕末に活躍した高杉晋作は、春信の子孫にあたる。