戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

末国 光氏 すえくに みつうじ

 毛利家臣。官途名は左馬助、後に伊豆守。安芸国舟木(現在の安芸高田市高宮町船木)を知行地とする。吉田郡山城の戦いから防芸引分まで、毛利氏の主要な合戦で高名を挙げた。

吉田郡山城の戦い

 天文九年(1540)九月、出雲の尼子詮久が出雲・伯耆因幡備前・美作・備中・備後・石見・安芸半国の兵で構成された大軍を率いて、毛利氏の本拠・吉田郡山城に迫った(「毛利家文書」)。

 十二日、城下に攻め寄せた尼子勢を毛利勢が迎撃。大田口で「大合戦」となり、広修寺縄手、祇園縄手などでも合戦があった。光氏は、親類とみられる末国與一とともに堀縄手で功名を挙げ、元就から感状を得た(「毛利家文書」「末國家文書」)。十月十一日、毛利勢が尼子方陣地の「青山構」に迫った合戦でも、光氏は活躍した(「末國家文書」)。

 十二月、吉田近辺に陶隆房率いる大内軍主力が着陣。翌天文十年(1541)正月六日、光氏は「青之町」に潜入して火を放った。そして同月十三日、毛利勢が宮崎・長尾の尼子方陣地を襲撃。光氏も高名を挙げた(「末國家文書」)。毛利勢は敵陣を切り崩し、三沢氏ら宗徒200人余を討ち取った(「毛利家文書」)。

 同日、陶隆房の大内勢も、青山・光井山の尼子勢本陣を攻めて激戦となった。大内方の損害も大きかったが、尼子方もまた尼子久幸ら多数が討死したため、本国へと撤退していった(「毛利家文書」)。

大内氏の出雲遠征

 天文十一年(1542)、大内氏は尼子氏の本国である出雲への遠征を開始。毛利勢は七月十八日、石見国邑智郡都賀東に参陣している。七月二十七日、大内方は出雲国飯穴郡赤穴城(島根県飯南町)に猛攻をかけて開城させた。以降、合戦と調略を繰り広げて出雲国内に侵攻し、尼子氏居城・富田城を包囲するに至った。

 この年とみられる十二月、毛利元就は光氏に対し、雪中の逗留を労うとともに、石見国人の福屋隆兼および小笠原長徳との交渉の状況を伝えている(「末國家文書」)。特に、小笠原長徳とは種々相談すべきことがあるが、着手できていないとしている。

 天文十二年(1543)五月、大内方は総退却を開始。尼子勢に後背を衝かれた為に総崩れとなり、多くの死傷者を出しながら敗走した。小笠原長徳は、毛利元就一行が領内を通過した際に、懇切に対応したという(「毛利博物館諸家文書」)。

高田郡舟木の給地

 天文十二年(1543)六月、光氏は毛利元就から、安芸国高田郡舟木50貫のうち田2町4段*1の知行を与えられた(「末國家文書」)。舟木の地は、享禄三(1530)十二月に毛利氏が大内義隆から知行を認められた高橋氏*2旧領の一つだった(「毛利家文書」)。

 ただ舟木田屋郷の仁後城跡は、地元では「尼子城」という別名もあるとされるので*3、尼子方の城であった可能性がある。毛利氏が舟木を実効支配できたのは、天文十年(1541)以降なのかもしれない。

 一方、舟木の知行を与えられた天文十二年六月、元就は光氏に対して、「彼跡之事」について当人の死後に知行地として与える旨も約束している(「末國家文書」)。「彼」とは、舟木を名字の地とする豪族・船木氏*4の人物である可能性があり、かつ光氏とも縁戚関係にある人物だったと考えられる*5

 少し後の天文十九年(1550)十二月、舟木の「田屋前」「そり田」や「土居内とくらく垣内」など計3町6反の地が、光氏に対して給付されている(「末國家文書」)。あるいは、この地が「彼跡之事」なのかもしれない。

毛利氏の独立前夜

 天文十九年(1550)七月十三日、毛利元就が有力被官・井上元兼ら30人余を粛清。同月二十日、毛利家中の福原貞俊以下238人が連署の起請文を元就・隆元に提出して忠誠を誓った。光氏の署名も親類の末国六郎左衛門尉とともに確認できる(「毛利家文書」)。

 天文二十一年(1551)七月二十三日、毛利氏は芸備両国の大内方国人を率いて備後国の尼子方拠点・志川滝山城を攻めた。城方の抵抗は激しく、毛利勢は226人もの死傷者を出しており、光氏も矢傷を負っている(「毛利家文書」)。

防芸引分

 天文二十三年(1554)五月十一日、毛利氏は大内氏から離反して出陣。その日のうちに佐東金山城、己斐城、草津城、桜尾城を攻略し、厳島まで制圧する。その後も大内氏の反撃を防ぎながら、安芸南部の防衛体制を固めた。

 そんな中の天文二十四年(1555)二月、光氏は毛利隆元から伊豆守の官途を許されている(「末國家文書」)。

 同年三月末、矢野の国人・野間隆実が毛利方から大内方に転向(「厳島野坂文書」)。四月十一日、毛利勢は矢野要害(矢野城)に猛攻をかけ、「矢野千手山」の尾頸之丸を切り崩した。光氏は被官の石井孫十郎が敵一人を討ち取る活躍をみせたため、元就・隆元から感状を得た(「末國家文書」)。野間隆実は同月十四日に降伏した(「譜録」渡邊三郎左衛門直)。

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毛利隆元の緊急招集

 天文二十四年(1555)六月十八日、光氏は毛利隆元から用があるので「明日可罷越候」と呼び出しを受けた。隆元は「早々到来待入候」と早急な参着を促している(「末國家文書」)。

 同様の呼び出しは、同年十月八日にもあった。この時光氏は養生中であり、代理として5年前に元服した嫡子・元光が隆元の所にいた。しかし隆元は元光を帰らせた上で、粟屋元種を使者として一刻も早く光氏自身がやって来るよう指示。「おそく候てハ曲有間敷候」(遅くなって何かあってはいけない)と、これまた緊急な用件であることを匂わせている(「末國家文書」)。

 当時の毛利氏は厳島合戦に勝利し、大内氏の分国である周防国へと侵攻していた。周防国東部では、小方氏や椙杜氏が毛利氏に降伏し、鞍掛山城の杉隆泰も同様に降っていた。

 しかし元和四年(1618)成立の『森脇覚書』によれば、大内方への内通を疑った毛利勢が鞍掛山城を攻撃し、杉隆泰はじめ多くの城兵が討死した。玖珂郡御庄(岩国市御庄)にいた隆泰の人質、有長加賀守と柳井弥二郎も殺害された。この任務にあたったのが末国伊豆守(光氏)と岡筑前守だったが、伊豆守は有長加賀守と切り合いの末、死亡したという。

 『森脇覚書』は後世の史料である為、光氏の最期が真実かどうかは定かではない。ただ同年十二月七日に、光氏の跡目相続が元光に安堵されているので(「末國家文書」)、これより以前に光氏が死去したことは事実らしい。隆元の招集から、間も無くのことだった。

参考文献

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舟木の田屋郷地区。後背の尾根には仁後城が築かれていた。

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舟木の水谷権現社近くの橋から眺めた生田川。

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吉田郡山城の遠景。天文九年から十年にかけて光氏も籠城した。

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青山の遠景。吉田郡山城の西にあり、尼子勢によって青山構が築かれた。天文九年十一月の合戦で光氏も青山構まで尼子勢を追撃した。

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四川ダムから眺めた志川滝山城跡。光氏も攻城戦に加わり、負傷した。

*1:児玉就忠からの打渡状には、「水谷名」「横路名」「かわ田」「実国」「あふら免」「おつさか」といった地名も記されている(「末國家文書」)。このうち「水谷」の地名は、現在も残っている。

*2:石見・安芸の両国にまたがる地域を支配した国人。享禄二年(1529)または三年(1530)に、毛利氏・和智氏・大内氏によって滅ぼされた。

*3:安芸高田市教育委員会「市史跡 仁後城跡」(看板) 2017

*4:「末國家文書」には、応仁三年(1469)四月に大内政弘が船木備中守に与えた感状が含まれている。

*5:船木氏と末国氏の関係の詳細は不明。江戸期に編纂された『閥閲録』巻128に記される末国家の家譜では、光氏以前について、いつ頃から毛利氏に仕えたか不明であるとしている。