戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

岩見 源之丞 いわみ げんのじょう

 安芸国賀茂郡の岩山城の城主であったと伝わる人物。大内氏被官か。弟に三之丞がいたという。天文二十年(1551)ないし天文二十一年(1552)に、毛利氏に攻められ討死したとされる。

江戸期史料にみる岩山城陥落

 正徳二年(1712)の「賀茂郡村々書付帳写」や文政十三年(1830)の「黒瀬組国郡志要用抜帖」の岩山の古城跡についての、伝承に岩見源之丞の名がみえる。

 なお岩山城は、現在の広島県呉市郷原町東広島市黒瀬町の境に位置している。戦国期は賀茂郡黒瀬村の内であった*1

 これら江戸期の史料によれば、岩見源之丞が岩山城の城主であった天文二十一年(1552)、毛利氏に攻められ、山麓の「しめし松」にて源之丞をはじめ多くの城衆が討死した。この合戦の討死人を埋めた場所に築かれたという「千人塚」は、現在も残っている。

 合戦の結果、岩山城は開城。残った城兵は搦め手から落ちていったが、毛利方の追撃により、城麓の広い原で悉く討ち取られた。これにより「うつたが原」と呼ばれたという。源之丞の弟・三之丞もまた、苗代村の境にて討死したと伝わる。

 なお、文政元年(1818)の「芸藩通志」では、岩山を居守していた「石見源丞」と弟の「三丞」は、天文二十年(1551)に毛利氏に滅ぼされたとしている。

毛利氏による東西条の制圧

 大永三年(1523)の「安芸国東西条所々知行注文」によれば、安芸国内の大内氏支配地域だった東西条のうち、「黒瀬 三百貫」は「大内方諸給人」領とされている(「平賀家文書」)。黒瀬村は、大内氏の支配が強く及んでいた地域だったことがうかがえる。

 天文二十年(1551)、大内氏重臣陶隆房大寧寺の変で主君・大内義隆を自害させた。安芸の有力国人・毛利元就は隆房に協力し、同年九月に大内氏の東西条の拠点・槌山城を落している(『閥閲録』巻62)。

 毛利氏の岩山城攻撃と石見源之丞らの討死は、毛利氏による東西条制圧の過程で発生したと推定される。岩山城の山頂部からは、瀬戸内海が視野に入り、黒瀬地域のほぼ全域も見渡すことが出来きる。東西条の南部の戦略的要地だったとみられる。

防芸引分と黒瀬衆の蜂起

 天文二十三年(1554)五月、毛利氏は大内氏に叛旗を翻し、周防との国境地帯までを制圧した。しかし同年十月に「黒瀬之者共」が蜂起。黒瀬村は再び、毛利氏と黒瀬衆がぶつかる戦場となった。

 最終的に「黒瀬之者共」は誅伐されたが、その抵抗は激しかった。毛利方では、石見国人・出羽元佑の御内衆数名が負傷し、中間1名が討死(『閥閲録』巻43)。毛利家臣・福万彦十郎も討死している(「福間家文書」)。

参考文献

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岩山城跡の頂上部から眺めた東広島市黒瀬町方面。

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岩山城跡頂上部から眺めた城麓。岩見源之丞が討死したという「しめし松」も地名として残っている。

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岩山城跡頂上部から眺めた黒瀬川下流域。岩山城は内陸の城だが、瀬戸内海の島々も視界におさめることができる。

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岩山城に残る石積の遺構。

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岩山城跡の遠景。その名の通り岩が多い。「火の用心」は1939年頃に初めて書かれたという。

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城麓の胡神社。長享元年(1487)に勧請されたと伝わる。中世には神社に接して岩山城主の館「土居」と、菩提寺の田福寺があったという。

*1:慶長五年(1600)五月の史料に「芸州賀茂郡黒瀬村之内郷原」とみえる(「辛未紀行」)。現在の呉市郷原町が、当時は黒瀬村に含まれていたことが分かる。