大内氏被官。万菊丸の父。仲次の子か。実名の「房」は大内氏重臣・陶興房または陶隆房からの偏諱とみられる。後に世次と改名した。防芸引分で大内方に付き、毛利氏に敗れた。
次男万菊丸
史料上の初見は天文二十二年(1553)三月二十日付の陶晴賢安堵状(「山野井文書」)。大内氏重臣・陶晴賢が能美加賀守に対し、縫殿允賢俊の「割分地」没収、および房次の次男万菊丸への譲与について承認している。
能美四郎賢次
房次の次男にまつわる安堵状を発給する13日前、陶晴賢は能美四郎という人物に加冠している。元服した四郎は、晴賢の偏諱を受けて賢次を名乗った(「山野井文書」)。この能美四郎賢次は、房次の長男であると推定される。
房次の1世代前の人物に、能美仲次がいる。彼の仮名も四郎とされる。仲次や賢次の家系は、代々仮名を「四郎」とし、「次」を通字としていたことがうかがえる。つまり、仲次ー房次ー賢次といった家督継承の流れであったと思われる。次男の万菊丸には、別家を継がせるつもりであったのかもしれない。
天文十五年の能美四郎
房次の仮名は不明だが、仲次や賢次と同じく「四郎」であった可能性は高い。天文十五年(1546)八月十五日、能美四郎が冷泉隆豊が指揮する大内警固衆の将の一人として伊予国越智郡中途島(現・愛媛県今治市中渡島)で戦っている(「山野井文書」)。この能美四郎は房次に比定される。
なお能美四郎は、郎従の渋屋小次郎が右股に矢傷を受けたことで、大内氏の感状を得た。
防芸引分と能美氏
天文二十三年(1554)、毛利氏が大内氏と断交して安芸国南部に侵攻。「能美衆」はいったんは毛利方についたものの、人質を見捨てて大内方に復帰した(「白井文書」)。
これに対し同年九月、毛利氏や小早川氏、阿曽沼氏の軍勢が能美島に侵攻。二十九日の合戦で多くの能美勢が討ち取られた*1*2*3。九月三十日、元就と隆元は、厳島社家・野坂房顕に「能美之儀」がうまくいって本望だと伝えている(「厳島野坂文書」)。
さらに翌年の天文二十四年(1555)四月、毛利元就・隆元父子は能美左馬允と大多和就重の両名に対し、能美島の三吉、高祖、高田、中村、沖浦の百姓への調略を命じている(『閥閲録』巻123)。この内、中村は能美仲次の所領があった場所であり、房次も継承していた可能性が高い。房次ら大内方の能美氏は、能美島での地盤を失いつつあった。
その後、大内方は同年十月の厳島合戦で大敗し、陶晴賢も自害する。
万菊丸の跡目相続
弘治二年(1556)十月、大内義長が能美満菊に対して、父世次の跡目相続を承認している。満菊は先述の万菊丸と同一人物*4とみられるので、万菊丸の父とされる世次は房次と同一人物と考えられる*5。
毛利方による周防侵攻が始まっても房次・万菊丸父子は、大内方に留まっていた。しかし房次はこの時点で死去していたと推定される。先述の通り、賢次が房次の嫡子であったならば、賢次も廃嫡あるいは死去していたことになる。
なお大内義長は跡目相続の内容を、天文十四年(1545)五月の大内義隆の裁許と天文二十二年(1553)二月の證判等によるとしている。両文書の詳細は不明だが、房次の代で得た証文だったと思われる。
参考文献
- 「山野井文書」(『広島県史』古代中世資料編4)
- 土居聡朋・村井佑樹・山内治朋 編 『戦国遺文 瀬戸内水軍編』 2012 東京堂出版
- 広島県 編 『広島県史 古代中世資料編Ⅱ』 1976
- 広島県 編 『広島県史 古代中世資料編Ⅴ』 1981
- 山口県文書館 編 『萩藩閥閲録』第二巻 1987
- 山口県文書館 編 『萩藩閥閲録』第三巻 1970
- 山口県文書館 編 『萩藩閥閲録』第四巻 1971
*1:九月二十九日の合戦では、毛利家臣の飯田義武、三増直近らが能美島で合戦。三増直近は敵の宗徒を討ち取った(『閥閲録』巻132、巻146)。
*2:小早川氏では、高崎武忠の僕従が首級を挙げたことで、小早川隆景の感状を得ている(「京都大学文学部所蔵文書」)。井上弥四郎も二十九日の合戦で敵一人を討ち取り、隆景の感状を得た(『閥閲録』巻11)。一方、檜垣新太郎は、船に敵が乗り込んできた際に、討ち死にした(『藝備郡中士筋者書出』)。ただし小早川隆景が遺児・檜垣槌法師に宛てた書状の日付は九月十九日となっている。二十九日よりも前に、別の合戦があったのかもしれないが、写す際に二十九日を十九日と誤った可能性もあるか。
*3:阿曽沼勢も敵数人討ち取る功績を挙げ、隆元・元就から感状を得ている(『閥閲録』巻48)。