戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

都野 隆保 つの たかやす

 石見国都野郷の国人領主・都野氏の当主。官途名は刑部少輔。都野長保の子か。毛利氏に味方して勢力拡大をはかり、上村・神主の権益を回復した。また都野氏が江津へと本拠を移した時期は隆保の時代と推定されている。

家督継承

  天文十六年(1547)から同十九年(1550)と推定される十二月二十六日、都野刑部少輔という人物が、家督継承承認の礼として太刀と青銅千疋を大内義隆に対して贈っている(「波多野家所蔵都野家文書」)。天文二十一年(1552)九月には「隆保」という人物が都野氏被官の飯田氏に文書を与えており、このことから都野刑部少輔は隆保のことと考えられている。

 一方、天文二十一年(1552)六月に石見益田氏が作成した「三隅分不知行地注文」には、「江津」を都野新左衛門尉(長保)が当知行(実効支配)していたことが記されている(「益田家文書」)。この都野長保は隆保以前から活動がみられる人物であり、隆保の父であると推定される。

大内氏の滅亡と毛利氏への服属

 天文二十年(1551)九月、大内義隆は家臣陶隆房(晴賢)の謀反により死去。豊後大友氏から迎えられた大内晴英(大友義鎮の弟)が跡を継ぎ、後に義長を名乗る。この頃、江要害(江津にあった大内氏の直轄城)には出雲尼子氏の調略があった。しかし在城していた大内家臣吉田重兼はこれに応じず、この時は大内氏が江要害を維持した。

 しかし天文二十三年(1554)、安芸毛利氏が大内氏と断交すると石見国の情勢も大きく動く。同年または翌天文二十四年(1555)、福屋隆兼(石見国那賀郡の国人領主)が「石州江之要害」を占領。大内氏城衆の杉治部太輔(隆泰)は、江要害を明け渡して退去したらしい(「厳島野坂文書」)。この時、福屋氏は毛利氏の味方として動いており、毛利元就は福屋氏の江要害攻略を「石州口之儀、弥属太利候条本望候」と喜んでいる。

 この頃、都野氏も大内氏から離れ毛利氏に通じた。天文二十四年(1555)七月、毛利元就が次男の吉川元春に宛て、「都野現形近日たるへく候」と伝達。すでに都野氏は毛利からの勧誘に応じ、大内氏から離反して毛利方となる意向を示していたことが分かる。

 弘治三年(1557)七月、都野隆保は重臣の上田因幡守を毛利元就・隆元父子のもとに派遣。あらためて毛利氏に神文を捧げ、服属を誓っている(『萩藩閥閲録』巻85)。

江津への本拠地移転

 この都野氏が毛利氏に属した時期、すなわち天文末年から永禄初年ごろ、都野隆保は江津へ本拠地を移して同地の亀山城を居城としたと推定されている。江津にある臨済宗観音寺が所蔵する最も時代がさかのぼるものは、隆保が文蔵主に観音寺を預けることを伝えた弘治二年(1556)十月十七日の書状とされる。さらに翌年の弘治三年(1557)四月、隆保は観音寺恵晧書記に普済寺を預けている。

 観音寺は都野氏の菩提寺とされ、隆保のものと伝えられる墓石以下が存在する。こうした都野氏と観音寺との関係は隆保の時代に生じたものであるとみられる。永禄五年(1562)正月、隆保は石見国二宮多鳩神社(江津市二宮町神主)別当寺の一つ太平寺に問題ありとして、知行を先述の観音寺文蔵主に命じている。この処置については、多鳩神社を観音寺の管轄下におくことを企図していた可能性が指摘されている。

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福屋隆兼の離反と「上村・神主跡職」

 永禄四年(1561)十一月、石見国那賀郡の福屋隆兼が毛利方から離反。同年十一月六日、福屋氏の軍勢は毛利氏の福光要害を攻撃し(「森家文書」)、城を守る毛利方の井田村衆や都治隆行・吉川経安・竹内方督らと交戦におよぶ(「多田家文書」「『萩藩閥閲録』巻146)。

 一方、都野隆保は福屋氏に同調せずに毛利氏に味方した。これにより毛利元就から「当知行」(現在の領地)を保障し、「上村・神主跡職」についても隆保の訴えに同意することを約束された。

 「上村・神主跡職」は、上村(江津市二宮町神村)の所領と石見国二宮多鳩神社の神主職およびその社領をさすとみられる。これ以前に都野氏と福屋氏との間で紛争があったことがうかがえる*1

毛利氏の軍事動員

 永禄五年(1562)二月、福屋隆兼は出雲国に没落(『森脇覚書』)。同年六月、石見銀山の山吹城を守備していた本城常光が毛利氏に寝返り、温泉津を本拠としていた温泉英永も没落していたらしい。ここに毛利氏による石見国の平定が完了した。

 六月十五日、既に毛利氏の支配下にあった温泉津について、毛利元就は「温泉之事、番衆すくなく候てハ不可然候条、都野事在城候様仰候て可給候」と吉川元春に指示。都野氏らに温泉津在番を務めさせるよう命じている(『萩藩閥閲録』巻103)。

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 また永禄十三年(1570)正月、毛利元就は前年からの尼子氏再興戦への対応として、吉川元春に「益田方なと都野已下之浦もち衆」の出雲国杵築浦警固への派遣を命じる(『萩藩閥閲録』巻5)。ここから都野氏が「浦もち衆」として多くの船を動員できる実力をもっていたことが分かる。

 ただし、永禄十三年時点での都野氏当主が隆保であったかは不明。元亀四年(1573)には都野元保が被官飯田氏へ安堵状を出しており、少なくともこの時までに元保への家督継承が行われていたことが分かる。

参考文献

【観音寺境内にある宝篋印塔】
都野隆保のものと伝えられる

*1:永禄四年(1561)二月、福屋隆兼は次男の福屋次郎と神村下野守・牛尾次郎左衛門に川上松山城を守備させている(『萩藩閥閲録』巻15)。福屋氏が都野郷上村の領主である神村(上村)氏を被官としていることが分かる。