戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

長崎 房次 ながさき ふさつぐ

 大内家臣。仮名は小太郎。官途名は隼人佐、後に丹後守。長崎安親の子。元直、但馬守某、真定の父。娘が二人おり、沓屋景頼の子の喜三郎・元綱兄弟に嫁いだ。厳島合戦後に屋代島衆をまとめて毛利氏に仕え、防長経略や豊後大友氏との合戦で警固衆として活躍した。

父安親と義兄元康

 永正七年(1510)八月以来、房次の父安親は病気の為に危篤状態となった。九月に譲状を作成し、十一月には一族の長崎才徳丸(後の元康)を養子とすることが主家から認められている。この時点では、房次はまだ生まれていなかったのかもしれない。

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 安親はその後に持ち直し、天文十四年(1545)九月頃に死去したらしい。同年九月二十九日、長崎小太郎房次は主家当主・大内義隆より父安親所帯を相続することを許可されている。

 なお、安親の養子となっていた元康は、天文十二年(1543)に出雲国で討死し、後には幼い道祖寿丸(後の房康)が残された。系図には、元康死後に房次が元康の家を継いだとある。しかし、上記のように房次は安親の跡を継いでいるので、実際は道祖寿丸の名代、後見役となったと考えられる*1

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厳島合戦

 長崎氏は、大内氏の周防守護代である陶氏との関係が強かった。房次実名の「房」も、陶隆房からの偏諱である可能性が高い。

 その陶隆房(晴賢)は、天文二十四年(1555)十月一日、厳島合戦において毛利氏に敗れて自害した。合戦から一ヶ月後の閏十月十五日、長崎隼人佐(房次)や長崎小大郎(房康)、長崎藤松丸ら長崎氏*2のほか、同じ屋代島衆である沓屋氏*3、桑原氏、櫛辺氏、浅海氏、栗田氏ら25名が、毛利氏に望地注文(給地要求のリスト)を提出している(「毛利家遠用物」)。

 房次は、毛利氏との交渉における屋代島衆の代表の一人だったとみられる。翌年の弘治二年(1556)、毛利氏が周防東部に侵攻する中で、周防道前表(熊毛郡から玖珂郡南部に通じる往還沿いの地域)の諸郷が毛利氏から離反。三月、毛利元就は房次と沓屋右衛門尉の二名に対し、「其元去年以来申合候衆中」(望地注文を出した屋代島衆)が毛利方に留まったことを「本望」とし、警固船を諸津々浦々に派遣するよう要請している(「毛利家遠用物」)。 

屋代嶋両人と豊前戦線

 毛利元就は、屋代島衆の代表者を「屋代嶋両人」とも呼んでいる。屋代島衆は、永禄年間の豊後大友氏との合戦に動員*4されて疲弊していたらしく、毛利水軍を率いる児玉就方が、「屋代嶋両人」に「ちとちと御言をかけられ候ハてハ」と元就に進言するほどであった(「毛利家文書」)。

 元就は隆元に対し、両人に銭200疋ずつを遣わした上で、懇ろに言葉をかけ、今度も「けいこ(警固)馳走」させるのだ、とアドバイスしている。

房次の跡

 系図によれば、房次の跡は元直が継いだ。慶長五年(1600)七月十七日、福原広俊ら毛利氏奉行人が、長崎和泉守(元直)と沓屋五兵衛(元綱=房次の女婿)、沓屋徳兵衛に対し、不慮の死をとげた長崎与三右衛門(事秀=房康の子)の一跡を、事秀の実子・能寿(後の元房)に認める旨を伝えている。

参考文献

  • 和田秀作 「「譜録」長崎首令高亮及び山中八郎兵衛種房の翻刻と紹介」 (『山口県文書館研究紀要』第47号 2020)
  • 土居聡朋・村井佑樹・山内治朋 編 『戦国遺文 瀬戸内水軍編』 2012 東京堂出版
  • 岡部忠夫 編著『萩藩諸家系譜』琵琶書房 1983

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下関火の山から見た豊前門司表。「屋代嶋両人」と呼ばれた長崎房次と沓屋右衛門尉は、毛利氏が「下口」と呼んだ豊前戦線で警固衆として奔走した。

*1:天文十二年(1543)六月二十一日、大内氏は長崎道祖寿丸に対して、若年のため公役は名代が勤仕せよとする奉書を出しており、元康の跡は道祖寿丸(後の房康)と認識されていたことが分かる。

*2:長崎氏の要求した給地は、長崎隼人佐(房次)は130石、長崎小大郎(房康)は60石、長崎藤松丸は50石。

*3:沓屋右衛門尉は200石で25名中最高。また長崎元康の娘を妻とする沓屋市助(景頼)は130石を要求している。他4名の名が見える。

*4:永禄四年(1561)十月二日、門司にて沓屋市助(景頼)が首級を挙げ、同月二十六日の門司八幡表の合戦で沓屋源四郎が高名を挙げている。いずれも児玉就方の麾下で戦っていた(「萩藩閥閲録 児玉惣兵衛」)。