戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

長崎 房康 ながさき ふさやす

 大内家臣。幼名は道祖寿丸。仮名は小太郎。官途名は兵部丞。長崎元康の子。事秀の父。自身と同じ屋代島衆の沓屋景頼に嫁いだ妹がいる。毛利氏の出雲侵攻の際、警固衆として活躍した。

父元康の死

 房康の父元康は、天文十二年(1543)、出雲遠征からの退却中に死亡した。同年六月二十一日、道祖寿丸に対し、陶氏家臣の安岡房長、江良房栄が連署奉書で、若年のため公役は名代が勤仕するようにという主家の指示を伝えている。幼い道祖寿丸の後見は、元康の養父・長崎安親とその子・房次であった可能性がある。また道祖寿丸の実名房康の「房」は、陶隆房からの偏諱とみられる。

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厳島合戦

 天文二十四年(1555)十月一日、厳島合戦において大内氏は毛利氏に大敗し、陶隆房(晴賢)は自害した。合戦から一ヶ月後の閏十月十五日、屋代島衆25名が毛利氏に望地注文(給地要求のリスト)を提出(「毛利家遠用物」)。その中に長崎小大郎(房康)や、長崎隼人佐(房次)、房康の妹を妻とした沓屋市助(景頼)の名前もみえる。屋代島衆を毛利方にまとめたのは、長崎隼人佐(房次)と沓屋右衛門尉であった(「毛利家遠用物」)。

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 翌年の弘治二年(1556)三月に、周防道前表(熊毛郡から玖珂郡南部に通じる往還沿いの地域)の諸郷が毛利氏から離反した際にも、屋代島衆は毛利方に留まった。長崎隼人佐(房次)と沓屋右衛門尉は、警固船を諸津々浦々に派遣するよう毛利元就から要請されている(「毛利家遠用物」)。 

出雲尼子氏攻め

 永禄六年(1563)十月、毛利氏は出雲国の尼子方要衝・白鹿城を攻略。さらに尼子氏本拠の月山富田城への補給を遮断するため、児玉就方を指揮官として警固衆による海上封鎖を行った。

 十一月四日、房康は同じ屋代島衆の沓屋源四郎、串部(櫛部)十郎らとともに、出雲国中海の「戸神表」(島根県安来市の十神山城)で警固衆として戦い、敵二人を討ち取り、さらに敵船を拿捕するという戦果を挙げた。同月十五日には伯耆国弓ヶ浜(鳥取県米子市境港市)で、夜討をかけてきた敵一人を討ち取ったことで、毛利元就から感状を得ている。

房康の跡

 房康の跡は、子の事秀が相続。事秀は慶長五年(1600)七月十七日に不慮の死をとげ、事秀の実子の能寿が跡を継いだ。能寿は慶長九年(1604)正月に毛利輝元の加冠で元服し、長崎勝五郎元房を名乗ったが、元房の代で家筋は断絶した。

参考文献

  • 和田秀作 「「譜録」長崎首令高亮及び山中八郎兵衛種房の翻刻と紹介」 (『山口県文書館研究紀要』第47号 2020)
  • 河合正治 『安芸毛利一族』 吉川弘文館 2014
  • 土居聡朋・村井佑樹・山内治朋 編 『戦国遺文 瀬戸内水軍編』 2012 東京堂出版
  • 岡部忠夫 編著『萩藩諸家系譜』琵琶書房 1983

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安来港から見た十神山。房康ら屋代島の警固衆は、出雲中海経由の尼子方補給路を遮断するため、「戸神表搦警固」を担った。