戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

島 吉利 しま よしとし

 能島村上家臣。官途名は中務少輔、後に越前守。村上武吉に仕えて活躍した。

備前児嶋で本太城を守る

 永禄十一年(1568)、吉利は、毛利方として備前児島西端の本太城に在城していた際、「阿州衆」(阿波三好氏)の急襲を受ける。十一月十四日付で村上武吉から吉利に出された感状によれば、この篭城戦で吉利の軍勢は敵陣を切り崩し、香西又五郎ら敵将を討ち果たした。

 永禄十三年(1570)三月、武吉は吉利に本太城付近の所領を打ち渡している。先述の篭城戦の恩賞とみられる。また能島村上氏の勢力が、児島の所領支配にまで及んでいたことを窺える。

毛利氏の攻撃

 しかし元亀二年(1571)、能島村上氏は一転して豊後大友氏、尼子氏ら反毛利陣営に加った。吉利も尼子方の美作三浦氏家臣・牧尚春から、情勢に関する書状を得ている。

 このため三月、吉利の在番する本太城には、因島村上亮康や備中の細川通董、三村元親らを動員した毛利方の軍勢が押し寄せた。毛利輝元小早川隆景に宛てた四月六日付の書状によれば、同城は四月上旬には陥落した。

豊後大友氏との外交

 能島村上氏は、天正四年(1576)には毛利方に復帰している。しかし依然として大友氏との関係を維持していた。その仲介を吉利ら島氏が担っている。

 例えば年未詳十一月、大友義鎮が島吉利に宛てた書状からは、吉利が武吉の使者として豊後に赴き、長期間在国していたことが分かる。吉利と大友家臣・田原親賢との間で、多くの文書がやりとりされていることが確認できる。

関ヶ原合戦

 慶長五年(1600)、関ヶ原合戦で西軍が敗れると、西軍に属した毛利氏の所領は大幅に削られた。これに伴って当時毛利氏に臣従していた能島村上氏の知行も、周防屋代島など実質1000石程度となってしまった。島吉利も、村上武吉に従って周防屋代島に移ったらしい。

 能島村上氏は、減少した知行高に対応するため家臣団を整理。吉利の子の中では、三男の吉方が残り、長男の吉知、次男の吉氏が暇をもらうこととなった。吉知、吉氏は武吉にあいさつもせずに立ち去った。これに立腹した吉利は、以後、彼らと音信をしなくなったという。

参考文献

  • 山内譲 『海賊と海城 瀬戸内の戦国史』 平凡社選書 1997

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周防大島(屋代島)東端の伊保田にある島越前守(吉利)の顕彰碑。文化八年(1807)に吉利の子孫らによって建立された。

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吉利の顕彰碑が建立された伊保田の町並み。

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吉利が仕えた村上武吉の墓塔。伊保田から7キロ程西の内入地区にある。

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小海城跡。伊予大三島東岸の好味地区にある。島氏の居城とされる。