戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

能美 和泉守 のうみ いずみのかみ

 大内武治家臣。安芸国能美島(現在の広島県江田島市)を本貫とする能美氏の庶流か。子に藤右衛門尉。

大内武治末期の家臣

 『正任記』文明十年(1478)十月三日条に、大内武治の家臣としてその名がみえる。武治家臣は全員で28名が挙げられているが、氏姓別の内訳でみると能美姓の者は和泉守を含め5名が確認できる。

 大内武治は、文明九年(1477)九月時点では惣領の大内政弘と敵対していた。しかし文明十年十月九日には、政弘に太刀と馬を献上しており、同月十一日に政弘方によって武治およびその家臣団の以前の知行分の確認が行われている(『正任記』)。

 武治は政弘と和睦し、知行地の処分等が行われたとみられる。和泉守ら28名の家臣団は、武治に最後まで従っていた家臣たちであり、強い結びつきがあったのだろう。以降、武治は史料に見えない。

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能美和泉守貞久

 文明十年(1478)六月、安芸国西条原村の50石の地が、大内家臣・安富弘行に宛行われた(「安富家証文」)。このことを伝える大内政弘袖判下文には「能美和泉守貞久跡六拾石内」との割書きがあり、以前の給人が示されている。

 この能美貞久は受領名が共通することから、武治家臣の能美和泉守と同一人物である可能性が高い。和泉守の給地が大内氏安芸国支配の中心である西条にあり、武治の没落とともに政弘方に没収されていたことがうかがえる。

 なお西条原村50石は、天文二十三年(1554)の時点でも弘行の孫の興宗が継承しており、さらに興宗の息女・とら鶴に譲られている(「安富家証文」)。

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武治と警固衆の関わり

 和泉守ら能美姓の武治家臣は、安芸国能美島を本貫とする能美氏の出身と考えられる。能美氏は呉衆、多賀谷氏とともに「三ヶ島衆」とも呼ばれ、大内方警固衆(水軍)の一翼を担った。

 応仁・文明の乱の際、大内武治は周防屋代島(現在の山口県周防大島町)の警固衆・櫛辺氏を直率し、感状を出している(「郷・櫛辺両家証文」)。武治が安芸や周防の警固衆と結びついていたことが窺える。

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参考文献

  • 和田秀作「大内武治及びその関係史料」(『山口県文書館研究紀要』第30号) 2003