周防大内氏家臣・安富興宗の息女。妹にとら靏。興宗に男子がいなかった為、所帯を譲られた。
所帯を譲られる
天文九年(1540)正月、夜叉は重病を患った父興宗から、譲状(ゆずりじょう)および同家代々の文書を渡された。翌天文十年八月、興宗は夜叉に相続後の方針について、詳細に伝えている。
縁辺の事は、夜叉の婿となる安富隆命と相談すること。夜叉に子が出来たら、その子が家督を相続すること。ただし、子が成人するまでは、隆命が大内氏に対する公役の名代を務めること。隆命が夜叉に対して不義をした場合、隆命を名代とするかどうかは、夜叉が決めること。もし病気が治ったら、興宗は現役に復帰するが、夜叉の子に家督を譲ることは変わらないこと。
興宗は、以上のような事を夜叉に伝え、申次の青景隆著を通じて大内氏の承諾も得た。ちなみに興宗は文書の中で、夜叉を「御夜叉」あるいは「おやしや」と呼んでいる。
父と夫の相論
その後、父興宗は持ち直したらしい。興宗は名代の隆命を改易しようとし、相論となった。結局は先述の興宗の譲状などが決め手となり、隆命側の訴えは棄却された*1。
一方、隆命の子・幸松を、興宗の猶子とすることは相論の過程で認められている。幸松の母は、夜叉とみられる。
父の所帯は妹へ
天文二十三年(1554)四月、興宗は息女のとら靏に所帯を譲った。とら靏の婿には、仁保隆慰の子が迎えらえた。同年十二月に隆慰が、養生中の興宗を気遣っているので、興宗は再び病を患っていたのだろう。
ただ夜叉への譲状では、興宗復帰後も夜叉の子への家督相続に変わりはないとされていた。あるいは、夜叉も幸松も既に死去していたのかもしれない。
参考文献
*1:この相論を担当した青景隆著と仁保隆慰は、隆命に対して「已数年在陣在城雖辛労候」とも述べている。彼の名代時代の働きをふまえれば、同情する部分が、かなりあったのかもしれない。