戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

大内 武治 おおうち たけはる

 15世紀頃の周防大内氏の有力親族。仮名は次郎。官途名は弾正少弼。当主の政弘に次ぐ地位にあったが、応仁・文明の乱の中で東軍方について離反した。

大内家中での地位

 長禄四年(1460)十二月、大内教弘が末武犬法師丸に長門国阿武郡大井郷の所領を預け置いた際、「武治」の命に従って知行するように指示している(「閥閲録巻82 末武与五郎」)。当時の武治は、阿武郡の支配権を持つ分郡主であった可能性が指摘されている。

 寛正六年(1465)五月、武治は弾正少弼に任じられた。室町幕府政所代・蜷川親元の日記には、前年から松雪軒(大内氏の京都駐在外交官)を通じてのロビー活動があったことも記されている(「蜷川親元日記」)。

 同年八月、武治は教弘の嫡子・大内政弘らとともに伊予に在陣していた(「蜷川親元日記」)。蜷川親元は日記の中で、「新介」(政弘)の次に「次郎」(武治)の名を挙げている。このことからも、大内家中で大内政弘に次ぐ地位にあったことがうかがえる。

応仁・文明の乱

 応仁元年(1467)から始まる応仁・文明の乱では、新当主となっていた大内政弘とともに、武治も西軍側で参戦した。周防国屋代島の警固衆(水軍)である櫛辺十郎次郎に対し、摂津国吹田における戦功を賞している(「郷・櫛辺両家証文」)。

 また文明元年(1469)十二月には、大内氏重臣・仁保弘有の摂津国神崎における戦功を政弘に報告。政弘からの感状も、武治から弘有に伝えられた(「三浦家文書」)。

政弘との敵対

 その翌年の文明二年(1470)春、国元において政弘の伯父・大内道頓(教幸)が、東軍の細川勝元に通じて挙兵した。同年五月十九日、摂津国下島に展開中だった武治は、仁保弘有や西条衆らを率いて戦線を離脱し、東軍に寝返った(「久芳家文書」他)。道頓に呼応した行動とみられる。

 文明三年(1471)九月には、長門国阿武郡の要衝・賀年城を、道頓や吉見成頼、三隅長信、周布和兼らとともに包囲している(「益田家文書」)。武治が帰国して道頓の軍事行動に加わっていたことが分かる。しかし賀年城は落ちず、道頓方は陶弘護や益田貞兼ら政弘方によって撃退された。

 道頓の軍事行動は文明四年(1472)正月には鎮静化し、武治の行動も分からなくなる。ただ文明七年(1475)八月、安芸国人・吉川氏と綿貫氏の抗争の際、調停者の筆頭として「大内弾正少弼」(武治)の名がみえる(「吉川家文書」)。紛争の調停を期待される権威を、当時の武治はなお維持していたことがうかがえる。

所領を失う

 文明九年(1477)九月、武治は在城中の城を政弘方の杉重隆に引き渡している(「永弘家文書」)。この時点でも、政弘と戦闘を継続していたことが分かる。

 しかし翌年の文明十年(1478)十月九日、京都から帰国して博多に滞在中だった政弘のもとに、豊前国鈴隈寺の武治から太刀と馬が献上されている(『正任記』)。両者の和睦が成立し、敵対関係も解消されたとみられる。

 その後、同月十一日には政弘方が武治およびその家臣団の以前の知行分の確認を行っているので、和睦に際して武治らの知行の多くは没収されたのだろう(『正任記』)。武治の「先知行分」は「二千八百余」とされており、仮に2800貫(石)を意味すれば、家臣の知行分も加味して一郡規模に相当する所領だったことになる。

 なお『正任記』は「先知行分」について「山国除之」とも記している。武治には、豊前国山国近辺の所領のみが残されたのかもしれない。以後、武治は史料にみえない。

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参考文献

  • 和田秀作「大内武治及びその関係史料」(『山口県文書館研究紀要』第30号) 2003

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武治らが攻めた賀年城跡の遠景。