戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

藍染料(メソアメリカ) あいせんりょう

 メソアメリカ地域では先スペイン期から19世紀まで、様々な文化・地域で藍染料が使用された。特に後世にマヤ・ブルーと呼称される青色顔料は、藍(インディゴ)とある種の粘土鉱物をミックスし、適当な熱を加えることによって造り出された。非常に堅牢な顔料であり、水はもちろんのこと、酸、アルカリおよび他の溶液や熱にも強く、古くから色料として壁画や土器、絵文書や石彫の着色に広く利用されていた。

メソアメリカの藍染

 メソアメリカでは、もっぱらマメ科インディゴフェラに属する藍草から藍染料を採っていた。藍染料採取に多く利用された藍草は、俗にヒキリーテ(シウキリートル)と呼ばれた。アステカ人らが話したナワトル語で「青の草」「青を生む草」を意味する*1。また、ユカタン・マヤではCh’ohと呼ばれており、スペインのフランシスコ会修道士ディエゴ・デ・ランダの記録にもみえる。

 藍染料・顔料は、このヒキリーテを刈り取り、一晩18~20時間ほど水に浸すと、インジカン(インディゴを含む配糖体)が水中に溶け出す。この水を棒や板、船の櫂のようなものでかき混ぜ、空気を入れてやると酸化により「藍」が生成され、ゆっくりと沈殿する。この沈殿物を乾燥したものが、いわゆる沈殿藍と呼ばれる。

 先スペイン期の「藍染料抽出」には、木や石をくり抜いたものを使っていたらしい。現在のエル・サルバドルでは今でも藍抽出水槽のことをカノア(カヌー)と呼んでいる地方があるという。

修道士ランダの記録

 前述の修道士ディエゴ・デ・ランダは、1566年(永禄九年)にユカタン半島のマヤ人についての歴史や文化をまとめた『ユカタン事物記』を著す。その中で、原住民の人身御供の儀式について、次のように記している。

犠牲者を裸にして身体を青く塗り、頭に尖がり帽子をかぶせて柱に縛りつける。弓矢を手にした人々は、神官の合図と共に踊りながら犠牲者の胸へ矢を射かける。

 他にも藍に関する記述がしばしばみえる。例えば、ヤンキン月の儀式におけるアニール(藍)の青いペーストについては、以下のようにある。

オロブ・サッブ・カムヤシと呼ばれる大祭の時、宗教儀式や焚香が終わるとあらゆる職業に使われる道具に藍泥を塗った。それは神官の使用する祭具から女たちが織物に使う紡錘、更には家の柱にまで及んだ。

 ランダはユカタン地方でCh’ohと呼ばれる植物から採る「青いペースト」について記しているが、これが藍泥または沈殿藍のことを指していると考えられている。

原産植物からの生成

 西インド諸島(現ドミニカあたり)においても鮮やかな染料が用いられていた。スペイン人植民地行政官ゴンサロ・フェルナンデス・デ・オビエドは、1526年(大永六年)に著した『インディアス自然誌概略』で以下のように記している。

この項を終わるにあたって、関連して思い出したことを記そう。インディオ達は、自分達が知っているあらゆる種類の樹皮や葉を用いて、綿布に着色したり、染めたりしている。色は黒、黄褐色、緑、青、茜色、そして赤で、どれもこの上なく鮮やかで強烈である・・・

 青、緑(黄+藍)を染める為に使われた染料植物は、中米からカリブ、南米にわたって広く分布していた「藍草」であったと考えられている。

 1584年(天正十二年)〜89年(天正十七年)の間、メキシコ・中米を旅したアントニオ・デ・シウダー・レアルも、その著『ヌエバエスパーニャの偉大なることどもに関する博識にして珍しい文書』の中で、藍について触れている。

かの地(現サルバドル地方)ではアニールが育ち、利用されている。アニールというのは、かの地に自然に生えている灌木であるが、それらを栽培して豊富な染料をとり、あまり大きくない薄型の四角い固まりにしている。

 この記述から沈澱藍を原産の植物から採っていたことが分かる。現在のエル・サルバドルでも、国のいたるところでシウダー・レアルの言う「灌木の藍草」の自生が見られ、かつて沈澱藍を採った水槽も国のあちこちに残存しているという。

サアグンの見た藍染

 スペインのフランシスコ会修道士ベルナルディノ・デ・サアグンは、アステカ人の「藍草」利用の伝統について、最も多く、そして正確な記録を残した。サアグンは1569年(永禄十二年)に著した『ヌエバエスパーニャ事物総史』の中で、「様々な色」(第11巻11章)と題し以下のように述べている。

暑い地方にあるシウキリートルという草は、これを潰して汁を器にとり、乾かすか固めるかする。こうして得た色料で光沢のある紺色を染めるが、これは貴重な色なのである。

 前述のようにシウキリートルとは、「青の草」「青を採る草」を意味し、先スペイン期唐利用されてきた新大陸原産の含藍植物を指す。また、サアグンは当時のメルカード(市場)風景を描写した記録の中の「色料を売る者達」(第10巻21章)と題する項で、次のようにも述べている。

その者達が売っている色料はあらゆる種類に及んでいる。乾燥したもの、挽き潰したもの、グラナ(コチニール)や明るい黄色、薄青、漂布土、松明の粉炭(松煙?)、緑青、ミョウバン、アシンと呼ばれる蝋虫から採る黄色い蝋、そしてこの蝋とチャポポトリを混ぜたツィクトリというもの、赤鉄鉱。よい匂いのする香料の類も売られているし、薬物類、例えばトラクァツィン(オポッサム)の尻尾といったようなものや、いろいろな草や根が売られている。

その他にも松ヤニに似たベトベトしたもの(瀝青?)や白い香、染料にする虫こぶ、大麦もどき*2、そして青いパン(固形物)、硫酸銅、白鉄鉱(黄鉄鉱)等も売られている。

 市場には絵具としての着色材(松明の粉炭、緑青等)と共に、固定材すなわち防水、表面コーティング材としてのアシンの蝋、並びにこの蝋とチャポポトリを混ぜたツィクトリというものも並べられていたことが分かる。さらにミョウバン(明礬)、赤鉄鉱、硫酸銅、白鉄鉱(黄鉄鉱)といった媒染剤として使える金属、または金属塩が染料と一緒に売られていたこともうかがえる。

 なお「青いパン」とは、沈澱藍のことを指していると推定されている*3。そして「薄青」は、後述のマヤ・ブルーそのものであった可能性が指摘されている。

 サアグンは他の項で様々な色で毛糸を染める「染め人」についても言及し、「売っている毛糸はしっかりと染めてあり、よく仕上がっている」と評価している。毛糸は黄、緑、金茶、紫、沈んだ緑、明るい緑、肌色などで染められていたという。また女性が「黒い泥」やシウキリートルで髪を染め、髪が紫色に見える程つややかにしている、とも記述している。この「黒い泥」は泥藍を指していると考えられている。

マヤ・ブルー

 マヤ・ブルーの名称は、ユカタン半島のいろいろなマヤ遺跡から採集された青色顔料からその研究が始まった為、20世紀になって「マヤの青」と呼ばれるようになったことに由来する。実際には、マヤのみならずアステカなどメソアメリカのいろいろな地域でも使用されたことが明らかになっている。

 マヤ・ブルーの例は数多く見つかっている。代表的なものでは、壁画ではボナンパック(マヤ古典期の都市遺跡)、カカシュトラ(メキシコ・トラスカラ州の都市遺跡)、そしてコロニア時代の教会壁画のいくつか、土器では太陽神アフ・キンをかたどったパレンケの円筒土器、アステカの中心地テンプロ・マヨールから出土した雨神トラロックをかたどった壺、ハイナ(メキシコ・カンペチェ州)出土の一連の土偶マヤパン出土の瓶棺などがある。

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 ただ、その製法は16世紀のスペインによる征服後に失われていた。しかし1966年、オルフェン(H.Van Olphen)が藍(インディゴ)で粘土鉱物のアタプルガイトを染め、その染色物に熱をかけることにより、酸や溶剤に強く、マヤ・ブルーの特徴をすべて備えた青顔料を作ることに成功。その後のクレーベルらの実験等により、藍とアタプルガイトを混合して作った青顔料と考古学サンプルが近似していることが確認された。

スペインによる栽培と輸出

 1558年(永禄元年)7月、スペイン王は新大陸のレアル・アウディエンシア(植民地管理統治機関)の長と判官たちに対し、藍に関する勅命を発している。その内容は、先住民たちが使っている布類を青く染める草、または泥土が、スペインの織物を染めるのに適しているかどうかの調査等を命じるものだった。

 当時、スペインはフランスとポルトガルから布を青く染めるパステル(藍玉)を輸入していた。新大陸の染料が藍玉と同じ働きをもち、多くの量を生産できるのならば、フランスとポルトガルから輸入する必要がなくなる、とスペイン王は考えていた。

 この勅令の約20年後の1575年(天正三年)には、中米全域で藍草の栽培が始まっていた。輸出先はスペイン本国をはじめ、メキシコ、ペルーといったスペインの副王領であり、商業化した藍染料は、かさばらず運送に便利な沈澱藍であった。品質は低いものから順にコルテ(並級)、ソブレサリエンテ(中級)、フロール(上級)*4があり、最上級品はフロール・ティサーテと呼ばれ、少量しかできなかった。

 スペイン本国は藍産業を重視し、1610年(慶長十五年)に藍の栽培法についての勅令を発し、その9年後の1619年(元和五年)にはイナゴの害の対処法に関する勅令も出している。17世紀の初めからは黒人奴隷が入るようにもなった。

 カルメル会修道士アントニオ・バスケス・デ・エスピノサの記録によれば、1620年代には「グァテマラのエスクィンテペケに40、グアサカパンには60、そしてエル・サルバドル地域には200以上の藍製造所があった」という。

 1637年(寛永十四年)、アイルランド出身のドミニコ会士トマス・ゲージは以下のように記している。

ある日ニカラグアグラナダで300頭のラバが藍とグラナ(コチニール)と皮革を積んでエル・サルバドルとホンジュラスのコマヤグアから到着するのを見た。そして翌日、さらに3隊がグァテマラから到着し、その1隊は藍を積んでいた。

 この藍はグラナダからカルタヘナへ送られたとみられる。その後はスペイン本国に行くか、あるいは陸路でパナマまで行き、その後ペルーへ送られた可能性があるという。

参考文献

  • 児嶋英雄 「マヤ・ブルー--この珍奇にして個性的な青色有機顔料」(京都外国語大学京都ラテンアメリカ研究所 『京都ラテンアメリカ研究所紀要』1 2001)
  • 児島英雄 「壁画の青は藍染料」(『季刊 文化遺産―第十五号 春・夏号』 財団法人島根県並河萬里写真財団 2003)
  • 児島英雄 「藍、又はインディゴについての覚え書きー主にグァテマラ・中米を中心にー」(J T中南米学術調査プロチェクト 編 『グァテマラ中部・南部における民俗学調査報告書 1991〜1994』 たばこと塩の博物館 1997)

マヤ・ブルーで装飾されたワニ型の陶製ホイッスル 8世紀
メトロポリタン美術館公式サイトより

貴人の土偶 マヤ文明ハイナ出土 600年~950年
「特別展 古代メキシコ―マヤ、アステカ、テオティワカン」([大阪会場]国立国際美術館)にて撮影

アステカの中心地テンプロ・マヨールから出土した雨神トラロクをかたどった壺
1440~69年
「特別展 古代メキシコ―マヤ、アステカ、テオティワカン」([大阪会場]国立国際美術館)にて撮影

*1:ナワトル語で「シウイトル」は碧・青を意味し、「キリートル」は草を意味する。

*2:学名:Schoenocaulon officinale, Schlecht cham

*3:「青い「パン」の「パン」とは、「パン状に乾かして固めたもの」のことを言う。

*4:色はあまり濃くない青色で知られていた。指で潰すと簡単に細かい粉となった。